山口輝臣– tag –
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物遠い法則
1章1節341-8 「法則」とは、「世界史の基本法則」を高唱していた社会科学、とりわけマルクス主義を念頭に置いた言葉。柳田は、マルクス主義について、正面切って言及することはなかったが、たとえば「いやしくも歴史の知識を持つて居てから仕事に取掛らうといふならば、意外によつて教へられるだけの用意がなくてはならぬ。出来るだけ多量の精確なる事実から、帰納によつて当然の結論を得、且つこれを認むることそれが即ち科学である」(『郷土生活の研究法』1935年、⑧259-15~17)とあるように、演繹的な法則を仮定し、過去にそれを見出すような態度をきびしく排した。マルクス主義に依拠した諸研究が当時席捲していたこと、そしてそれらと『世相篇』における「新しい企て」(「自序」... -
込み入つた調査
1章1節341-8~9 「調査」とは、いわゆる社会調査を念頭に置いた言葉。社会調査と目されるものは、横山源之助『日本の下層社会』(1899年)など明治期から存在するが、大正期に入ると、大原社会問題研究所(1919年創立)など民間の調査研究機関による調査活動に加え、内務省社会局(1920年設置)などの行政機関や、東京市をはじめとする地方団体による調査が行われるなど、「調査節」(添田唖蝉坊、1917年頃)で「明けても暮れても調査調査また調査」と揶揄された時代となり、1920年にははじめての国勢調査が実施された。それらと、『世相篇』における「新しい企て」(「自序」337-3)とは、扱う対象において重なる点があったことなどから、『世相篇』が何でないかを示す例として「調査... -
明治三十四年の六月に、東京では跣足を禁止した
1章8節361-6 明治34年5月29日警視庁令第41号のことで、全文は、「「ペスト」予防の為東京市内に於ては住家内を除く外跣足にて歩行することを禁す。/本令に違背したる者は刑法第四百二十六条第四号により拘留又は科料に処す」(『警視庁東京府公報』)。 ペストはペスト菌による感染症。この禁令は、直接的には、同じ月に東京帝国大学構内において死んだネズミよりペスト菌が発見されたことにともなうものである。ただこの庁令は、その発令時から風俗取締との関係が注目されており、たとえば雑誌『風俗画報』には、「従来、車夫、馬丁、車力其の他職工等、労働者社界には、跣足にて市中を往来するもの多く、(…)跣足もとより未開の余風として端人の恥づべき所なり。今回は庁令を以て禁... -
外部の文明批評家
1章1節342-10~11 「文明批評家」とは、文明を批評することを業とし、主に論壇で活動する人のこと。もっとも、ここでは、「同じ流に浮ぶ者」の「外部」に位置し、そこから世相を論断する人物というより広い意味に用いられており、「一個特殊の地位に在る観察家の論断」(「自序」339-18)と同じものを指す。「鴨の長明とか吉田兼好とかいふ世捨人」以外に具体的な人名の例示はないが、高山樗牛(1871-1902)や長谷川如是閑(1875-1969)、さらには大宅壮一(1900-1970)あたりを念頭に置いた語と思われる。 そしてそれが「外部の」ものであることに、ここでの力点はある。柳田は、「外部の文明批評家」による論断を鵜呑みにする態度をみじめと評し、「実験の歴史」を試みようと提案する... -
外国旅客の見聞記
1章4節349-5 有名なのものとして、プラントハンターとして知られる英国人ロバート・フォーチュン(1812-1880)の見聞記にある、「住民のはっきりした特徴は、身分の高下を問わず、花好きなことであった」にはじまる記述がある(『幕末日本探訪記 江戸と北京』講談社学術文庫、1997年、32頁以下)。フォーチュンは、1860年に長崎から日本に入国してすぐに、こうした印象を記している。ただしこれは『世相篇』刊行より70年前のことであり、「近頃」というにはあまりに遠い。また「毎度有る」(349-6)とあるように、柳田自身これを定型的な記事と捉えているため、そもそもひとつの出典を確定することは難しい。しかしたとえば、ジャパン・ツーリスト・ビューローが刊行していた雑誌『ツ... -
花作り
1章4節349-13 「前栽」の記述(348-10~11)からも分かるように、ここでの柳田は、蔬菜などではなく、花卉を栽培することを限定的に、かつ一般的に表現するものとして、「花作り」という語を用いている。よって、蔬菜栽培・果樹栽培などとは別に花卉栽培というのに、ほぼ等しい。 そうした「花作り」が、江戸時代に大規模化していく経路として、まずは大名屋敷などで珍しい植物を育てることの流行がある。富豪などでも同様の試みをするものが増え、なかには花屋敷・梅屋敷などという名で、庶民に公開されたものもあった。そうしたもののひとつで、現在も続く向島百花園は、1809年に開園している。このように都市の庶民も花を愛でる文化を共有していた。また、こうした動きと関連するが... -
初期の勧農寮の政策
1章4節349-17 「勧農寮」は、1871年8月から翌年10月にかけて、大蔵省内に存在した殖産興業、とりわけ農業奨励のための部局。しかし「初期の勧農寮」という表現から、柳田は、その時期に限らず、それ以前の民部省勧農局や大蔵省勧業司・勧業寮、1873年末の内務省設置にともなう同省の勧業寮、さらにはその後進のひとつである勧農局などの総称として使用しているようで、明治初期の勧農政策というのとほぼ等しいだろう。「北海道の米国式農政」というのは、1871年9月に開園した開拓使官園などのこと。開拓使顧問の米国人ホーレス・ケプロン(1805-1885)が指導し、東京の青山などに設けられた。1874年に農業試験場と改称したが、1881年に民間に払い下げられ、翌年廃止された。官園の成果... -
明治二十九年の綿花関税の全廃
1章5節353-19~20 1896年法律第57号「輸入綿花海関税免除法律」による措置。同法の全文は、「外国ヨリ輸入スル綿花ハ明治二十九年四月一日ヨリ海関税ヲ免除ス」。紡績業の勃興にともなって輸入綿花の使用量が増大してくると、紡績業界では、綿花輸入税と綿糸輸出税は、コスト上昇の要因で国際競争力を削ぐものであるとして、廃止を要求する声が高まった。これに対し、国内の綿花生産者は、大日本農会を中心に綿作保護運動を展開した。当初は関税収入が減少することを理由に政府は躊躇していたが、1894年にまず綿糸輸出税を、そして2年後に綿花輸入税を廃止した。これによって紡績業の発展は加速したが、国内の綿花栽培は大打撃を受けた。柳田は、この法律などなくとも日本綿は同じ運命... -
草鞋は通例足の蹠よりもずつと小さく
1章8節361-13 足半(あしなか)のことであろう。かかとにあたる部分のない短い藁草履(わらぞうり)。鼻緒を別にすげるのではなく、台部の芯縄の末端を表に出して鼻緒とし、前で横緒と結ぶ。軽くて走りやすく、武士などが好んで用い、農山漁村でも作業用に広く用いられた。「足半には礼儀なし」、「足半を履かせる」などの言い方がある。足半に対して、普通の長さのものを長草履という。アチックミューゼアム編『所謂足半(あしなか)に就いて』(『アチックミュージアム彙報』9、1936年)がある。[山口] →明治三十四年の六月に、東京では跣足を禁止した、柳田國男の足元、男女の風貌はこの六十年間に、二度も三度も目に立ってかはつた~、下駄屋 -
綿フランネル
1章6節355-7 フランネルとは毛織物のこと。ネルと略した。綿フランネルとは、フランネルに似せて綿糸で織った綿織物のこと。綿ネルとも言う。1870年、畠山義信(1841-1894)が、和歌山藩の兵士の被服・肌着用に、起毛した綿織物を試作したのがはじまりとされる。毛織物は当初ほとんど輸入するほかなかったが、綿フランネルは国内生産が可能だったこともあり、軍隊の制服などに採用され、需要の高まりとともに縞なども織られるようになった。日清戦後には中国や朝鮮にも盛んに輸出された。代表的な産地は和歌山県であり、紀州ネルと呼ばれる。こうした来歴のほか、創始者とされる畠山義信にはそのことで1898年に銀杯が下賜される一方で、たとえば文盛堂編集所『世界発明譚-科学の進歩』...
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