及川祥平– 執筆者 –
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同じ流に浮ぶ者
1章1節341-6 世相の全容を知ることの困難を説くこの言葉は、柳田國男の学問の基本的な性格と連動している。世相を見定めることはなぜ困難で、また、なぜその方法がここで説かれる必要があったのだろうか。世相を知ることの困難は、観察者が対象のなかに一生活者としてあらかじめ埋め込まれていることに起因する。それは時として自明に過ぎ、対象として認識することが難しい。直後に鴨長明や吉田兼好などの「世捨人」の名があげられているが、柳田の説こうとするものは「世捨人」になることなく世相を把握するための方法であったと理解できる。ここでは「最近に過去の部に編入せられた今までの状態」との「比較」が、つかみ取りがたい世相を可視化する実験として提案されている。 言うま... -
日常+日常化
1章3節345-8、346-12、1章4節350-7+1章4節351-2 柳田國男が「珍事・奇談」ではなく(千葉徳爾「『日本民俗学の頽廃を悲しむ』について」『日本民俗学』194号、1993年、158頁)、「当たり前なもの」「ありふれたもの」に関心を向けていたことはいまや論を俟たないが、彼が「日常」という語をどのように使用していたかはなお検討されてよいだろう。『世相篇』の中では、日常という語は5ヵ所(第1章第3節に2ヵ所、第1章第4節に2ヵ所、第8章第1節に1ヵ所)出現する。例えば、第1章第4節では、花に対する「昂奮の如きもの」が消え、その楽しみが「日常凡庸のものと化した」という一文、そして、「微妙の天然を日常化し、平凡化して置いてくれたのは無意識であつたろうが」というかたちで「日... -
四月始には、これを摘み取つて戸口に挿し、又は高い樟の尖端に飾つて、祭をするのが村々の習はし
1章4節348-4 ここで紹介されている四月始の習わしは、一般に「卯月八日」と呼ばれている年中行事であり、かつて広域に見受けられたものである。桜の花見が普及する以前の花見の機会、または山遊び・磯遊びの機会でもあった。とりわけ、高い棹の先端に摘み取った花を飾るものは天道花、八日花、夏花、立て花などともいう。民俗学の議論では、農事をはじめる時期にあたって、田の神の来臨を願う依り代として解釈する見方もある(浦西勉「卯月八日」『日本民俗大辞典』(上)吉川弘文館、1999年、171頁)。柳田もまた、『祭日考』ほかで、神の来臨との関連で天道花に言及している(1946年、⑯51)。[及川] →花見、盆花、門に祭をする、季節信仰 -
盆花
1章4節348-5 盆花とは、盆に際して精霊に供える花を指す。今日では生花店等で買い求められる場合が多いが、かつては特定の時期に、自ら山に入って採取するものであった。また、盆市または草市・花市と称する盆の供物を商う市で買い求める場合もあった。 盆花はキキョウ・オミナエシなどに限るという土地もあるが、秋の花ならば何でもよいという場合もあった。これを野山に摘みに行くことを「盆花摘み」という場合があるが、13日に行われる精霊迎えの前日、11日か12日ころが多いという。盆花を山から摘んでくる事例は、正月の門松を山から採取してくる松迎えと対応するという見方がある。『先祖の話』において「桔梗の紫の蕾、又は粟花の黄なる花の穂に、みたまの宿りを想像した時代もあ... -
門に祭をする
1章4節348-6 正月に際して門松等を用いて祝う習慣を指す。柳田は、「祭の木」(1950年『神樹篇』)において、門松が門前に設ける飾りのように誤解せられていることについて、「かど」は門のことではなく、家の表の広場であり、正月に際して神を依らせる屋内各所の松のうち、出入り口に設けるものを大きくしたに過ぎないと述べている(⑲590~591)。 今日、門松と称されるものは、御松様、正月様などと、かつては呼称も多様であり、今日のように購入されるものではなく、農村では「松迎え」などと称して、山から自ら採取してくるものであった。また、松や竹のみならず榊、葛、椿など、用いる植物も多様であった。また、門松もまた正月の神祭りと対応するものであり、歳神を迎える依り代... -
季節信仰
1章5節351-15 季節信仰は民俗学においても耳慣れない表現であるが、往々にして、民俗信仰は年中行事のなかで特定の季節(感)と対応するものであった。そのような四季折々の行事に際して使用される花々は、その折に採取できるものと対応しており、同時にそれはその行事の色彩的イメージを構成するものであったといえるだろう。季節信仰の超越とは、色彩の解放によってもたらされる「季節-色彩-信仰」関係の変質ないし崩壊と理解することができるだろう。[及川] →花見、四月始には~村々の習はし、盆花、門に祭をする、花木が庭前に栽ゑて賞せられる、赤い花 -
露出の美を推賞しなければならぬ機運
1章8節361-8 これに続く「不思議なる事実」(361-9)とは、西洋諸国との関係が、生活の中での身体露出を制限しようとする流れを生む一方、美的表現としての身体露出を取り込もうとする流れをも生み、それらが軋轢を生じていたということである。ここでいう「露出の美」は、西洋美術の伝統的な画題である「裸婦」に代表される裸体画である。 フランスで美術教育を受けた黒田清輝は1893年(明治26)に東京美術学校西洋画科に講師として赴任し、日本の洋画の確立に貢献するが、彼が重きを置いたのが「裸婦」であった。日本における裸体画の嚆矢は黒田が1895年(明治28)に第4回内国勧業博覧会に出品した『朝妝(ちょうしょう)』であり、同作品は裸体画が猥褻か芸術かという論争を引き起こ... -
所謂洋服も亦とくに日本化して居る
1章7節357-4 本節には「洋服」と「ヨウフク」という二通りの表記がみられる。『世相篇』全体で「洋服」は9ヵ所に登場し、そのうち7ヵ所が第1章第7節に集中している。残りの2ヵ所は、第2章「食物の個人自由」第7節「肉食の新日本式」であり、洋食をめぐる議論のなかで言及があり(388-7)、もう1ヵ所は第10章「生産と商業」第1節「本職と内職」のなかで、仕事着の洋服化によって、衣服を家人が製作する生活が変わる可能性が示唆されている(526-9)。 一方、「ヨウフク」は第1章第7節に3ヵ所見出せる。一つ目が第7節冒頭の「ヨウフクといふ語が既に国語であると同じく、所謂洋服も亦とくに日本化して居る」(357-4)という発言であり、2ヵ所目は「ヨウフクの発見は至つて自然である」と... -
麻しか産しない寒い山国でも、次第に麻作を手控へて
1章6節354-14 木綿に取って代わられたとはいえ、麻づくりがただちに消滅したわけではなく、『世相篇』の時代においても、麻の衣類は着用され、また、麻の栽培も継続していた。そもそも、綿花の栽培は温暖で湿潤な気候が適するといい、国内でも綿花栽培は東北地方では成長しなかった(永原慶二『苧麻・絹・木綿の社会史』吉川弘文館、2004年)。『木綿以前の事』収録の「何を着ていたか」において、柳田は熊本県の九州製紙会社を見学した際に紙の原料となる古麻布を東北から取り寄せている事実に注目し、同地方では冬でも麻布を着用していたことを報告している(⑨438)。すなわち、「寒国には木綿は作れないから、一方には多量の木綿古着を関西から輸入して、不断着にも用ゐて居るが、冬... -
以前の渋いといふ味ひを懐かしく思ふ
1章3節347-16~17 社会/文化変化へのリアクションとして、過去への憧憬が発生するという議論は、日本の民俗学においては1980年代から90年代にかけてドイツ語圏民俗学のフォークロリスムス(フォークロリズム)という概念が紹介されてから、特に2000年代以降に関心を集めるようになった。とくに過去への憧憬に呼応して提供される表面的な昔風の演出をめぐる議論が蓄積されている。こうした現象の背景としては、急速な文化の変化や社会変動をその渦中で体験している人びとが抱く、現在への不安なり不満との関連が指摘されている(法橋量「記憶とフォークロリスムス」『記憶―現代民俗誌の地平3』朝倉書店、2003年。岩本通弥「都市憧憬とフォークロリズム」『都市とふるさと―都市の暮らし...
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