第1章第9節– category –
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所謂騒音
1章9節364-9 「騒音」という語が現れ、規制の対象となることは新しい問題であった。東京では、外国人の眼を意識した風俗の改良をめざし、1872年11月に違式詿違(いしきかいい)条例が出された。ここでは、立小便や裸体、肩脱ぎ、入墨が禁止されたが、1878年(明治11) 5月に「街上ニ於テ高聲ニ唱歌スル者但歌舞営業ノ者ハ此限ニアラズ」、「夜間十二時後歌舞音曲又ハ喧呶シテ他ノ安眠ヲ妨クル者」が追加された。末岡伸一によれば、これが最初の騒音規制とされる(「騒音規制の歴史的考察(明治期から第二次世界大戦)」、『東京都環境科学研究所年報』、2000年、207~214頁)。東京に範をとった違式註違条例が各地で制定されるなかで、騒音は規制の対象とされていったが、ここでの騒音... -
香道
1章9節364-13 沈水香木を熱し、その香を鑑賞する芸道であり、香を「聞く」と表現する。主に、香木の香を鑑賞する聞香(もんこう)と、香を聞き分ける組香(くみこう)に別れる。595年(推古天皇3年)に香木が漂着し、朝廷に献上されたという記録が『日本書紀』にあるが、香を焚く文化は仏教の伝来とともに供香として日本に出現し、やがて宮中や貴族の生活に取り入れられていく。平安期の貴族社会では薫物(たきもの)を調合し、楽しむ風が生まれる。平安期の薫物が香料を調合し練り合せたものを焚くのに対し、室町期以降に武士の文化として隆盛した香木をそのまま加熱する手法が、今日の香道につながっていく。鎌倉期に、舶来品である香木の入手が困難になり、使用の制限が加えられる中... -
香道が疲るゝ嗅覚の慰藉であつたやうに
1章9節364-13~14 柳田の議論は生活をめぐる五感の問題として相互に連動している。ここでの香道への言及も、つよい刺激を好む風潮が、各種の生活と結びついた感覚を鈍らせていくという見方のもとにおかれている。それらの刺激は、雑多な刺激の増加によって疲労した感覚を、統一することで癒そうとするものでもあった。香道の場合、「珍しくかつ力強く人の心を動か」す音の増加に疲れた聴覚が音楽を求めることと併置されており、疲れた嗅覚を癒すため、雑多なものの一切を「超脱する」ために求められた手段として位置づけられている。柳田はこれを「人の平日の」感覚を「遅鈍にする」ものと位置付ける。同様の見方は第2章の「村の香、祭りの香」における「たばこ」への言及にもみられる... -
音は欠くべからざる社会知識
1章9節365-4 生活のなかの音を、私たちが共有している知識ととらえ、音が、生活のありようと歴史を知るよりどころの一つとなることを説く斬新な発想を提示している。 1980年代以降に議論されはじめた、中世における鐘の音の社会的意味を問うた社会史(たとえば、アラン・コルバン『音の風景』藤原書店、小倉孝誠訳、1997年、笹本正治『中世の鐘・近世の鐘―鐘の音の結ぶ世界』名著出版、1990年、パウル・サルトーリ『鐘の本―ヨーロッパの音と祈りの民俗誌』八坂書房、吉田孝夫訳、2019年などや、または風景(ランドスケープ)と同様に、テクストとして街の音を読むことができるという考えかたに基づく「サウンドスケープ」論(たとえば鳥越けい子『サウンドスケープ―その思想と実践』鹿... -
全体に一つの強烈なる物音が、注意を他のすべてから奪ひ去るといふ事実は、色の勝ち負けよりも更に著しいものがあった
1章9節365-7~8 柳田が音に対する人びとの意識の問題を取り上げた早い時期の例として、『遠野物語』(1910年)の33話にある「白望の山に行きて泊まれば、深夜にあたりの薄明るくなることあり。秋の頃茸を採りに行き山中に宿する者、よく此事に逢ふ。又谷のあなたにて大木を伐り倒す音、歌の声など聞ゆることあり」という一文が挙げられる(②24)。「遠野物語拾遺」(1935年)の第164、236話にも「耳の迷い」「経験の一画期」と題して同様の話が収められているが、後者は1927年(昭和2)に飛行機が遠野上空を初めて飛んだ時のプロペラの音に対する人びとの反応を記したものである(②157~158)。この他にも、人びとが異様な音に注目していたことを示す話が、「山島民譚集(三)」(未刊... -
共同の幻覚
1章9節365-11 山神楽、天狗倒しは山中で祭りの音曲や伐木の音が聞こえてくるというもので、天狗や狸のしわざとする語り伝えが多い。これらの音の「幻覚」について、「よほど以前に私はこれを社会心理の一問題として提供して置いた」とあるのは、「山人考」(1917年『山の人生』、③595~608)を指している。そこで柳田は「常は聴かれぬ非常に印象の深い音響の組合せが、時過ぎて一定の条件の下に鮮明に再現するのを、其時又聽いたやうに感じたものかも知れず、社会が単純で人の素養に定まつた型があり、外から攪乱する力の加はらぬ場合には、多數が一度に同じ感動を受けたとしても少しも差し支えは無いのでありますが、問題はたゞ其幻覚の種類、之を実験し始めた時と場処、又名けて天狗... -
造り酒屋
1章9節365-14 第7章「酒」第2節「酒屋の酒」を参照のこと。[及川] -
酒造りの歌
1章9節365-15 かつての社会において、各種の仕事における合同作業には、作業の苦労をやわらげ、また、一心に協力する手段として仕事唄が伴った。「口承文芸とは何か」(1932年『口承文芸史考』、⑯)では、民謡の発生を用意した前代の文化のひとつとして仕事唄が取り上げられ、工場唄、草刈唄、茶摘唄、田植唄等への言及がある(⑯413~414)。 各地の造り酒屋でも、杜氏たちが酒造りの各工程において、共同作業の調子をあわせるために各種の唄を歌った。[及川] →共同の幻覚 -
言論の如きは音声の最も複雑にして又微妙なるものである。是が今までさういふ形式を知らなかった人々を、実質以上の動かし得たのも已むを得なかつた
1章9節365-20~366-1 音声とあることから、言論とは主として演説のことであろう。『福沢全集緒言』(1897年)や『明治事物起源』(1908年)などから、明治初期に演説という形式が出現してきたことはよく知られており、柳田は、『国語の将来』(1934年⑩)をはじめ各所で演説に言及する。演説は、聞こえのよさを主眼とした付け焼刃で、型にはまった空疎なものであり、言葉の力はないに等しいとし、座談の名人である原敬に永遠の印象をとどめた演説のないことから、「日本語そのものが、未だ我々の内に輝き燃えるものを、精確に彩色し得るまでに発達して居ない結果ではあるまいか」と考えた(「国語の管理者」1927年、㉗208-3~5)。しかしこれは「余りにも頻繁なる刺激の連続によつて、こ... -
外国の旅人は日本に来て殊に耳につくのは、樫の足駄の歯の舗道にきしむ音だと謂つた
1章9節366-9~10 グラバー邸内のコールタール舗装(1863年)、銀座煉瓦街における煉瓦舗装(1873年)、神田昌平橋のアスファルト舗装(1878年)などはあったが、日本で舗道が普及しはじめるのは20世紀前半である。1919年制定の道路法に基づく内務省令第25号「街路構造令」に「主要なる街路の路面は(…)適当なる材料を以て之を舗装すへし」と規定され、同年制定の都市計画法により街路事業が進められたこと、1923年の関東大震災後の復興事業が国と東京市の双方で実施されたこと、自動車保有台数が増加したことなどが背景にある。コンクリート舗装とアスファルト系の簡易舗装とがあり、1930年には東京市の道路総面積440万坪の55%が舗道になった。すなわち、樫の足駄の舗道にきしむ音は...
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