第1章第4節– 注釈一覧 –
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花見
1章4節348-3 ここでいう花見は、躑躅(つつじ)や藤、山吹の咲き栄える頃とあって、桜に限っていない。中部以西では「三月三日、もしくはその何日かののちに、花見とも花ちらしとも言つて、必らず酒食をたずさえて」山遊びに行く風があり、九州一帯の海村での三月節供の日などの磯遊びや八重山のパナパナ(花々)と関連付けて、柳田は捉えている(「山歌のことなど」1932年『民謡覚書』、⑪58~61)。「青空の下に、酒を飲んで酔舞する」日本の花見は(「春を楽しむ術」1926年『豆の葉と太陽』、⑫254)、歌と男女の酒食が常に中心にあって、「歌が談話よりも自由な表白方法」(⑪64-3)だった「歌垣の名残」(⑪58-1)だと、彼は見なしている。中国地方や四国には4月8日(卯月八日・灌仏会... -
四月始には、これを摘み取つて戸口に挿し、又は高い樟の尖端に飾つて、祭をするのが村々の習はし
1章4節348-4 ここで紹介されている四月始の習わしは、一般に「卯月八日」と呼ばれている年中行事であり、かつて広域に見受けられたものである。桜の花見が普及する以前の花見の機会、または山遊び・磯遊びの機会でもあった。とりわけ、高い棹の先端に摘み取った花を飾るものは天道花、八日花、夏花、立て花などともいう。民俗学の議論では、農事をはじめる時期にあたって、田の神の来臨を願う依り代として解釈する見方もある(浦西勉「卯月八日」『日本民俗大辞典』(上)吉川弘文館、1999年、171頁)。柳田もまた、『祭日考』ほかで、神の来臨との関連で天道花に言及している(1946年、⑯51)。[及川] →花見、盆花、門に祭をする、季節信仰 -
盆花
1章4節348-5 盆花とは、盆に際して精霊に供える花を指す。今日では生花店等で買い求められる場合が多いが、かつては特定の時期に、自ら山に入って採取するものであった。また、盆市または草市・花市と称する盆の供物を商う市で買い求める場合もあった。 盆花はキキョウ・オミナエシなどに限るという土地もあるが、秋の花ならば何でもよいという場合もあった。これを野山に摘みに行くことを「盆花摘み」という場合があるが、13日に行われる精霊迎えの前日、11日か12日ころが多いという。盆花を山から摘んでくる事例は、正月の門松を山から採取してくる松迎えと対応するという見方がある。『先祖の話』において「桔梗の紫の蕾、又は粟花の黄なる花の穂に、みたまの宿りを想像した時代もあ... -
門に祭をする
1章4節348-6 正月に際して門松等を用いて祝う習慣を指す。柳田は、「祭の木」(1950年『神樹篇』)において、門松が門前に設ける飾りのように誤解せられていることについて、「かど」は門のことではなく、家の表の広場であり、正月に際して神を依らせる屋内各所の松のうち、出入り口に設けるものを大きくしたに過ぎないと述べている(⑲590~591)。 今日、門松と称されるものは、御松様、正月様などと、かつては呼称も多様であり、今日のように購入されるものではなく、農村では「松迎え」などと称して、山から自ら採取してくるものであった。また、松や竹のみならず榊、葛、椿など、用いる植物も多様であった。また、門松もまた正月の神祭りと対応するものであり、歳神を迎える依り代... -
花木が庭前に栽ゑて賞せられる
1章4節348-9 柳田は花が先祖に供えられるもの、あるいは神に捧げられるものであることに着目し、「祭」「節句」を連想させるものだとしている。そしてこれが庭に栽えられるようになったのは、「酒が遊宴の用に供せられるに至った」のと軌を同じくするとしているが、信仰と結びついていた花と酒が、娯楽の場に取り入れられた過程に注目していたことが窺える。寺や神社などの霊地に古木が存在することや、日常的な労働の場である庭の片隅に花木を栽えて「特別な作業即ち季節毎に神を迎へる場」とする行為の背景に、信仰の影響を想定する視点は、「しだれ桜の問題」(1936年『信州随筆』⑨22)などにも見られる。なお理由は様々だが、庭に植えることが忌まれる花木も多く、その数は確認され... -
面白いといふのはもと共同の感激であつた
1章4節348-10 直前で「花木が庭前に栽ゑて賞せられるようになつた」ことと、「酒が遊宴の用に供せられるに至つた」ことを、「相似」した変化としている。 「酒」については、ことに第7章でふれており、そこでは、もともと酒は特別な日の宴にのみ醸して享受していたものを、次第にその宴の経験を、見知らぬもの同士が交流するための場として使うようになり、それとともに信仰から離れて酒を日常的に消費するようになったと指摘されている。その第7章に、この「共同の感激」と呼応する次のような表現がある。「天の岩戸の昔語りにもあるやうに、面白いといふのは満座の顔が揃つて、一方の大きな光に向くことであつた。すなわち人心の一致することであつた」(7章1節476-2~3)。 色の解放... -
前栽といふのは、農家では蔬菜畠のこと
1章4節348-11~12 家の前庭に植えた草木を前栽といい、「せざい」ともいう。『蜻蛉日記』(975年)に「せんざいの花、いろいろに咲き乱れたるを」とあるように、平安時代の貴族は前栽に趣向を凝らし、「前栽合」でその優劣を競った。翻って庶民は、庭先で野菜などを栽培していたことから、後に野菜、青物は「前栽物」と呼ばれるようになる。これを略して前栽ともいった。大槻文彦『言海』(1886年)によると「蔬菜」の語は18世紀半ばごろから広く見られるようになり、それ以前は「な」「あおもの」が一般的だったようである。このころから前菜を蔬菜畠というようになったと考えられる。近世の町において人々が庭で野菜を栽培するのは普通だったが、これが近代に入って衰退し、都市の人... -
椿の花が流行
1章4節348-15 江戸における椿の流行は、1643年(寛永20)刊の『あづまめぐり(別名・色音論)』に見られ、江戸の市井の出来事を記した『武江年表』(斎藤月岑著、正編1850年、続編1882年)にも、その記述が引用されている。当時の人びとは品種改良や突然変異による「変わりもの」を珍重し、「百椿図」(17世紀・伝狩野山楽筆)などの絵画も描かれた。柳田は、日本全国に広く分布する椿が、人々の信仰と深く関わるかたちで広がったと考えた。特に寒冷地の北日本にまで椿が分布するためには、「人間の意志」が不可欠であるとし、「天然記念物」ではなく「史跡記念物」である可能性を示唆している。八百比丘尼が持ち歩いたとされる玉椿の枝や、東北の民間宗教者の呪具である椿の槌、卯月八... -
山茶花
1章4節349-1 椿の流行に続き、山茶花や木瓜(ぼけ)の流行で、近世日本の園芸の目まぐるしい発達を述べている。ここでは山茶花には漢名しかなく、帰化植物のように書かれてあるが、1938年の「白山茶花」では「花卉を愛玩する流行の始めは、一々の記録こそは得がたいが、少なくとも大名等が戦ひをしなくなつて後に相違ない。紅とか斑入とかの色々の珍種とともに、をかしなサザンクヮなどゝいふ名称が入つて来て、それが上層の間に行はれた結果、今まであつた凡庸の白山茶花までが、其中に巻き込まれてしまつた」とし、古名はカタシといって油をとった樹木だったと論じている(「白山茶花」1938年『豆の葉と太陽』⑫232)。[岩本] →日常+日常化、一方の流行の下火は、いつと無く其外側... -
一方の流行の下火は、いつと無く其外側の、庶民の層へ移つて行つた
1章4節349-2~3 定本柳田國男集や講談社学術文庫では「一方の上流の流行の下火は、いつとなくその外側の、庶民の層へ移っていった」と「上流」という語が加筆されている。この節だけでも「流行を始めた人たちは娯楽であつたかも知れぬが、それが普及するには別に又是だけの理由があつた」(349-10~11)とか、「所謂玄人たちはもう省みなくなつてからも、変つた色々の花が地方に普及し」(350-16)とするように、流行の都市・上流における発生と、地方・庶民への文化普及の方向性を、繰り返し説いている。「流行」を始めた人たちと区別し、普通の人びとの「心の変化」(349-5)という「普及」の理由を問うことや、流行が習俗として埋め込まれていく過程を、柳田は課題に据えているとい...
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