第1章第1節– 注釈一覧 –
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同じ流に浮ぶ者
1章1節341-6 世相の全容を知ることの困難を説くこの言葉は、柳田國男の学問の基本的な性格と連動している。世相を見定めることはなぜ困難で、また、なぜその方法がここで説かれる必要があったのだろうか。世相を知ることの困難は、観察者が対象のなかに一生活者としてあらかじめ埋め込まれていることに起因する。それは時として自明に過ぎ、対象として認識することが難しい。直後に鴨長明や吉田兼好などの「世捨人」の名があげられているが、柳田の説こうとするものは「世捨人」になることなく世相を把握するための方法であったと理解できる。ここでは「最近に過去の部に編入せられた今までの状態」との「比較」が、つかみ取りがたい世相を可視化する実験として提案されている。 言うま... -
物遠い法則
1章1節341-8 「法則」とは、「世界史の基本法則」を高唱していた社会科学、とりわけマルクス主義を念頭に置いた言葉。柳田は、マルクス主義について、正面切って言及することはなかったが、たとえば「いやしくも歴史の知識を持つて居てから仕事に取掛らうといふならば、意外によつて教へられるだけの用意がなくてはならぬ。出来るだけ多量の精確なる事実から、帰納によつて当然の結論を得、且つこれを認むることそれが即ち科学である」(『郷土生活の研究法』1935年、⑧259-15~17)とあるように、演繹的な法則を仮定し、過去にそれを見出すような態度をきびしく排した。マルクス主義に依拠した諸研究が当時席捲していたこと、そしてそれらと『世相篇』における「新しい企て」(「自序」... -
込み入つた調査
1章1節341-8~9 「調査」とは、いわゆる社会調査を念頭に置いた言葉。社会調査と目されるものは、横山源之助『日本の下層社会』(1899年)など明治期から存在するが、大正期に入ると、大原社会問題研究所(1919年創立)など民間の調査研究機関による調査活動に加え、内務省社会局(1920年設置)などの行政機関や、東京市をはじめとする地方団体による調査が行われるなど、「調査節」(添田唖蝉坊、1917年頃)で「明けても暮れても調査調査また調査」と揶揄された時代となり、1920年にははじめての国勢調査が実施された。それらと、『世相篇』における「新しい企て」(「自序」337-3)とは、扱う対象において重なる点があったことなどから、『世相篇』が何でないかを示す例として「調査... -
吾妻廻り
1章1節341-15 色音論とも呼ばれた『吾妻廻り』は、徳永種久よる1643年(寛永20)刊行の仮名草子であり、当時の江戸の流行や名所を紹介した、のちの吉原細見の祖とされる。椿の流行やウズラ(鶉)の鳴き声など、民間些事の単なる観察記にすぎない、この取るに足らない小書を、柳田がわざわざ冒頭でふれるのは、「眼に見耳に聞いたものを重んじた態度だけは好い」(342-11~12)からである。第4章「風光推移」の「山水と人」で「文学にも実は沢山の粉本があつた」(418-6)と述べるように、絵や文章などの手本となるものを重視する粉本主義から、感覚を解放し、「所謂埃箱の隅でも描いていゝといふ流儀」(418-11~12)よって、表現をも自由にさせる点を評価したのであり、そこから観察で... -
比較
1章1節342-7 柳田國男が構想した郷土研究(民俗学)は、常に「比較」することを求めていた。『世相篇』には、二種類の「比較」が説かれている。一つは、この「新しい現象」と「最近に過去の部に編入せられた今までの状態」とを比べ、各自の経験にもとづき生活の変化を理解する「比較」である。もう一つは、第15章で主張される、「地方は互ひに他郷を諒解すると共に、最も明確に自分たちの生活を知り、且つ之を他に説き示す必要を持つて居る」という、比較のダイナミズムの可能性である(667-11)。 前者を縦の比較とするなら、後者は横の比較ということになる。「縦の比較」は、歴史の専門家の力を借りずに歴史を構想するための手続きであり、「横の比較」は、問題を抱えたもの同志が大... -
実験の歴史
1章1節342-9 柳田はこの「実験の歴史」の前に、「実験法」(341-10)という言葉を用い、その前後で、「方法」(341-7)「法則」(341-8)「調査」(341-8)「観察」(341-15)という語を用いている。「実験」という語は、他にも見えているが(342-14,19)、自序でも「採集」(337-13)「分類」(337-13)「標本」(338-8)「観察」(337-11)など、自然科学の論文と見間違うほどの用語法で、文章を埋め尽くしている。本書冒頭での、この記述は、単なる文飾を施したのでなく、自然主義運動(ナチュラリズム)の下、「実験の人文科学」として「実験の史学」(1935年、㉒416-3)を打ち立てたいとする、その意気込みが窺える箇所となっている(定本㉕では「実験の史学」と改題されているが... -
外部の文明批評家
1章1節342-10~11 「文明批評家」とは、文明を批評することを業とし、主に論壇で活動する人のこと。もっとも、ここでは、「同じ流に浮ぶ者」の「外部」に位置し、そこから世相を論断する人物というより広い意味に用いられており、「一個特殊の地位に在る観察家の論断」(「自序」339-18)と同じものを指す。「鴨の長明とか吉田兼好とかいふ世捨人」以外に具体的な人名の例示はないが、高山樗牛(1871-1902)や長谷川如是閑(1875-1969)、さらには大宅壮一(1900-1970)あたりを念頭に置いた語と思われる。 そしてそれが「外部の」ものであることに、ここでの力点はある。柳田は、「外部の文明批評家」による論断を鵜呑みにする態度をみじめと評し、「実験の歴史」を試みようと提案する... -
歴史は他人の家の事績を説くものだ、といふ考を止めなければなるまい
第1章第1節342-14~15 これに続けて柳田は、問題の立て方によって「他人にもなれば、また仲間の一人にもなるので、しかも疑惑と好奇心とが我々に属する限り、純然たる彼等の事件といふものは、実際は非常に少ない」と論じる(342-15~16)。彼は民俗学も広い意味での歴史だと位置づけたが、それは歴史学(文献史学)の補助科学という意味ではない。『世相篇』は世相史とも呼ばれるが、感情や感覚といったあくまで個人的な心意を掬い取りつつも、その中の共同的な「生」のあり様や仕組みの変化を、総体的なプロセスとして具体的に描こうとした。「歴史」を私たちの側に引き寄せて、自らの問題として考え、足元からその過去を問う態度や精神を、彼は「史心(ししん)」と呼んだ。あくまで... -
問題の共同
1章1節342-17 「純然たる彼らの事件というものは、実際は非常に少ないのである」という数行前のフレーズは、個にのみが責任と解決を負わされる問題はない、という『世相篇』の基本的な姿勢を言い表している。この「問題の共同」はその姿勢を示すことばであり、明治大正期における新たな貧困のかたちとして、零落が一個の家であり個人の問題として現れる、孤立をともなった貧困、「孤立貧」の存在を指摘する第12章第5節で、「異郷他人の知識が今少し精確になり、屢々実情の相似て居る貧窮が、地をかへ時を前後して発現して居ることを学ぶのが、今では自己救済の第一着の順序となつて居る」(第12章第5節570-5~6)と主張する一文と呼応している。そして最終の第15章では、この「孤立貧」...
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