露出の美を推賞しなければならぬ機運

1章8節361-8

これに続く「不思議なる事実」(361-9)とは、西洋諸国との関係が、生活の中での身体露出を制限しようとする流れを生む一方、美的表現としての身体露出を取り込もうとする流れをも生み、それらが軋轢を生じていたということである。ここでいう「露出の美」は、西洋美術の伝統的な画題である「裸婦」に代表される裸体画である。

フランスで美術教育を受けた黒田清輝は1893年(明治26)に東京美術学校西洋画科に講師として赴任し、日本の洋画の確立に貢献するが、彼が重きを置いたのが「裸婦」であった。日本における裸体画の嚆矢は黒田が1895年(明治28)に第4回内国勧業博覧会に出品した『朝妝(ちょうしょう)』であり、同作品は裸体画が猥褻か芸術かという論争を引き起こしたことで知られる。1897年(明治30)、日本人女性をモデルにした裸体画『智・感・情』が、黒田らの主催する美術団体・白馬会の第2回展に出品されると、再び新聞紙上で論争がおきる。第2回展以降、白馬会には裸体画が毎回出品されていくが、1901年(明治34年)の第6回展において、裸体画が風紀を紊乱するものとして警察の介入するところとなり、作品を布で覆って展示するという「腰巻事件」が発生する(清水友美「明治期・大正期における裸婦像の変遷―官憲の取り締まりを視座に」『成城美学美術史』22号、2016年)[及川]

腰巻明治三十四年の六月に、東京では跣足を禁止した