新たなる仕事着+制服

1章7節357-16+1章7節358-3

明治政府は、後述の「服装改革の詔」にあるように服制を「風俗」「国体」の問題として捉え、新たな服制を制定するにあたって、『大宝律令』(701年)以来の「制服」という古語を復活させる一方で、公家様式でも武士様式でもない、「洋服」を「新たな仕事着」(357-16)すなわち、制服として採用した。これは、幕末には、「異風」として町民らに禁止された服装であったが、何をもって「国風」(1章6節354-7)とみなすかは、時期文脈において大きく変化しており、柳田は変化の前段階を安易に「国風」、伝統として論じる見解を排する。北方史研究の浪川健治の指摘するように、江戸時代においても、「江戸言葉風俗」に対して「御国之言葉風儀」が対置されて後者が墨守されたが、のちにロシアが南下の動向を見せると、かつての風俗を「夷風」とし、「諸国一統」の「風儀」を国風とみなすようになったように(浪川健治『近世日本と北方社会』三省堂、1992年)、対置される対象によって「国風」という言葉の内実は異なってゆく。

1868年に、服制に関する意見が徴収され、1870年に太政官布告により官吏の服制が、本文にある「明治四年」すなわち1871年には、「服装改革の詔」が出され、郵便配達夫、警官の制服が制定される。翌年には、海軍軍服、鉄道寮、駅長らの制服が制定されるなど、この時期に集中して、公務に従事する人々に対して制服が制定されるに至った。柳田らの編纂した書籍では、1871年の「軍服軍帽徽章法」をもって「兵士の仕事着としての洋服制が確立した」(直江広治「衣食住」『明治文化史 13 風俗編』洋々社、1954年)とみており、本文で、郵便集配人、兵士、警官の事例から制服(仕事着)とその着衣の在り方の工夫を説き起こしていると思われる。ただし、幕末や西南戦争の際には、日本刀携帯に便利なように、制服の上から兵児帯を締めるなど、「兵士でも警察官でも、最も真剣な働きの際には、屢々是(前文「学生が制服に下駄をはき、ズボンに帯を巻いて手拭を挟んだりするを指すと思われる)に近い改良」(1章7節358-4~5)とにあるように、当初から、従来の在り方を工夫した「必要なる変更」を加えていた。[田村] 

国風所謂洋服も亦とくに日本化して居る婦人洋服の最近の普及