1章8節363-17
第8節の最終パラグラフの最後の二つの文では、第7節の「単に材料と色と形とが、自由に選り好みすることを許されて居るといふまでである」(1章7節361-5)と呼応する、「流行」批判を踏まえた柳田が理想とする消費のありかたに関する議論が展開している。
私たちは、結局、あくまでも与えられた「流行」を、一見「自由に選り好み」しているにすぎず、「独立して各自の必要品」を自ら考えてこなかったことに反省を促す。しかし特に柳田は、そうした「流行」により「前のもの」が滅ぼされてしまはず、「新旧雑処して残つていた」ことが「好都合なこと」だったと述べ、うわべの「材料と色と形」のみの変化のなかで、なお「前のもの」が残っている状況を一つの可能性としてとらえた。新たな流行と、「前のもの」を比べて、改めて自らの暮らしにとって真に必要かつ適切なものを選択することができるからである。
また、この「新旧雑処して残つて居たといふこと」は、柳田が後に民俗学を構想し、各地の暮らしを比較して生活の新旧の変化の過程を明らかにしていくことが可能になるという考え方を提示した際の、前提でもあることに注意しておきたい。[重信]
→比較、実験の歴史、別に第二のそれよりも珍しく、また上品なるもの、拘束、流行、所謂生活改良家、靴は其の本国では脱ぐ場所が大よそ定まつて居る~、単に材料と色と形とが、自由に選り好みすることを許されているといふまでである、厚地綾織類の詰襟~、町の流行で無かつたといふこと、真に自由なる選択