紡績の工芸が国内に発達してくると共に

1章5節354-1

明治10年代中頃から、輸入綿の増加とともに紡績工場が全国に増えていく。そうなるともはや、人々はいちいち洗濯のたびに木綿に糊付けして、かつての麻の感触を保とうとするような手間を自らかけることなく、外部から与えられた木綿そのものの「湿って肌に付く」感触を受け入れるようになったというのである。

輸入綿と工場生産に押されるかたちで、木綿の自家生産が行われなくなっていった。遠藤武「衣服と生活」(渋沢敬三編『明治文化史 12 生活編』1950年所収、14~17頁)は、その間の経緯を次のように説明している。明治期の綿栽培は、1883年(明治16)の全国綿花作付面積9万9389・6町から、1897年(明治30)には4万4444町へと、半減していった。各地で綿作が中止され、たとえば富山県婦負(ねい)郡呉羽村では、付近に工場ができて機械糸が安く手に入るので1890年(明治23)に綿作を中止し、京都府の綾部市や天田郡下夜久野村などでは綿より利益の多い養蚕に転じていったという。綿作の中止と綿糸紡績工業の発達により、農家の衣服の自給が終わりを迎えることになったのは確かだろう。

しかし紡績綿が普及する一方で、手織綿は紡績綿に比べて「遥かに堅牢」であるため、労働着を日常の衣服とする農村では、外から綿糸を購入して自家用の衣服を手織りで織る女性の労働を大正時代まで続けていたところもあったという(前掲、遠藤)[重信]

洗濯全国の木綿反物を、工場生産たらしむる素地明治二十九年の綿花関税の全廃縞を知らない国々との交際