1章4節349-13
「前栽」の記述(348-10~11)からも分かるように、ここでの柳田は、蔬菜などではなく、花卉を栽培することを限定的に、かつ一般的に表現するものとして、「花作り」という語を用いている。よって、蔬菜栽培・果樹栽培などとは別に花卉栽培というのに、ほぼ等しい。
そうした「花作り」が、江戸時代に大規模化していく経路として、まずは大名屋敷などで珍しい植物を育てることの流行がある。富豪などでも同様の試みをするものが増え、なかには花屋敷・梅屋敷などという名で、庶民に公開されたものもあった。そうしたもののひとつで、現在も続く向島百花園は、1809年に開園している。このように都市の庶民も花を愛でる文化を共有していた。また、こうした動きと関連するが、花卉栽培が産業となっていく経路もあった。江戸時代には、愛好家が競いあうなかで、花卉の品種が爆発的に増加した。武家から庶民までが熱狂する「花作り」は、やがてこれを業とする者を生み出していく。江戸では染井にその集落があったことが知られている(湯浅浩史「花卉の歴史」今西英雄ほか編『花の園芸事典』朝倉書店、2014年、12頁)。
こうした変化に、柳田はなによりも「気持」の移り変わりを見出す。「日本人の花好き」(349-5)といった非時間的な見方とは、明らかに異なる理解であり、本節が「花を愛するの情も亦大いに推し移つて居る」(348-1)とはじまることと対応するものであるとともに、非時間的な見方が「実は半分しか当たつて居なかつた」(349-7)ことの説明ともなっている。なお、花といっても、柳田が本節で言及するのは、もっぱらその色であり、さらに「我が民族と色彩との交流」(350-7)や「日本の色彩文化」(350-9)などへと一般化する一方で、花の香りついては議論を展開していない。[山口]
→外部の文明批評家、花見、花木が庭前に栽ゑて賞せられる、前栽といふのは、農家では蔬菜畠のこと、外国旅客の見聞記、町でも花屋が来ぬ日、赤い花、明治年代の一大事實、初期の勧農寮の政策、外国の旅人は日本に来て殊に耳につくのは~