1章4節348-10
直前で「花木が庭前に栽ゑて賞せられるようになつた」ことと、「酒が遊宴の用に供せられるに至つた」ことを、「相似」した変化としている。
「酒」については、ことに第7章でふれており、そこでは、もともと酒は特別な日の宴にのみ醸して享受していたものを、次第にその宴の経験を、見知らぬもの同士が交流するための場として使うようになり、それとともに信仰から離れて酒を日常的に消費するようになったと指摘されている。その第7章に、この「共同の感激」と呼応する次のような表現がある。「天の岩戸の昔語りにもあるやうに、面白いといふのは満座の顔が揃つて、一方の大きな光に向くことであつた。すなわち人心の一致することであつた」(7章1節476-2~3)。
色の解放と酒の解放についての論じ方には、柳田の議論における一つの共通したストーリーを見ることができる。かつて集団的な信仰をともなった「興奮」もしくは喜びが、次第に信仰的な要素を衰滅させ、「興奮」のみを享受するようになるというストーリーである。そして、『世相編』の柳田は、その新たな「興奮」が、商人が作った外部の仕組みにより、しばしば「流行」として、一方的にもたらされるようになることを批判的に見ていた。
それは、この色や酒だけでなく、第2章「食物の個人自由」において提示される、同じ火で調理したものを食するという火の信仰の共同性が衰退し、別火で調理した温かく柔らかい食べ物に対する喜びが優先されていった、という指摘とも通底している。[重信]
→昂奮