1章3節345-13
第1章、第2章では、「好み」「好み嫌い」「好き嫌い」などのことばが頻出する。『世相篇』における明治大正期の消費と生産をめぐる生活の構造的変容をめぐる議論のなかで使われる、この「好み」ということばは、近代的な市場経済を駆動する消費者の行動を表す「選好」という経済学の概念に重ねて理解することもできるだろう。
「好み」は、私たちの消費生活における生理的な欲求や、機能的な必要性とは異なる欲望をも可視化する。たとえば柳田が指摘する、色に飽きてまだ着られる服を着なくなるような私たちのありようをもとらえることができる。「好み」ということばで、『世相篇』は、決して合理的でも理性的でもない、ある意味で感覚的な消費を問うことを可能にしたのである。
民俗学は、フランスの社会史の動向に重ねて、「感性」に着目した『世相篇』の歴史記述を評価してきたが、この「好み」ということばは、確かに「感性」という問いに接合する。しかし、それは単なる生活文化の記述にとどまる問題ではないだろう。柳田は、消費者の「好み」に、都市の商人(資本)の思惑が反映されていることを批判するとともに(第10章第5節)、「好み」にもとづく消費のふるまい自体は、非合理的であると批判して元に戻せるようなものではない、不可逆な変容であるという現実を見据えていたのではないだろうか。[重信]
→一種の中間性、単に材料と色と形とが、自由に選り好みすることを許されているといふまでである、町の流行で無かつたといふこと、真に自由なる選択