八 足袋と下駄
明治三十四年の六月に、東京では跣足を禁止した①。主たる理由は非衛生といふことであつたが、所謂対等条約国の首都の体面を重んずる動機も、十分に陰にははたらいて居たので、現にその少し前から裸体と肌脱ぎとの取締りが、非常に厳しくなつて居るのである。是が恰かも絵と彫刻の展覧会に、最も露出の美を推賞しなければならぬ機運②と、並び進んだのは不思議なる事実であつたが、是よりも更に大いなる一つの問題が今尚解決せられずに残つて居るのである。我々が足を包まうとする傾向は、実はもう久しい前から現はれて居た。或地の法令は単に之を公認し、又幾分か之を促進したといふに過ぎぬので、人が足を沾らして④平気で居てもよいか悪いか③は、寧ろ新たに東京の先例に由つて、考へさせられることになつた次の問題である。最初の跣足禁止は足と地面との間に、何か一重の障壁を設ければよかつたので、或は草鞋の奨励と謂つた方が当つて居た。草鞋は通例足の蹠よりもずつと小さく⑤、それで泥溝をあるいて大道に足形を附けて行く光景が当時の漫画界の題材とさへなつて居た。斯ういふ人たちででも無いと、もうその頃には跣足では歩かなかつた。しかも傘は頭しか隠さず、蓑は既に流行におくれ、雨だけは依然として横吹きに降つて居たのである。裾をからげて脛を天然の雨具とする以外に、是ぞといふ便法も発明せられずして、大正終りの護謨長時代⑪まで遣つて来た。だから手拭は本たうは足拭であり、洗足の盥は家々軒先の必要器什であり、跣足禁止はまだ少しでも根本の解決では無かつたのである。
それが忽ちにして今日の足袋⑥全盛となつたのは決して法令の力では無いのである。武家階級の上下を一貫して、素足⑧はもと礼装の一部であつた。人が是で無くては存分に走り廻れなかつたこと、それから革足袋が本来沓の一種であつたことを考へると、別に意外な話でも無いか知らぬが、後に木綿の柔かな足袋が、家々では普通に用ゐられるやうになつても、尚病身又は老年を理由にして、毎冬殿中足袋御免⑨を願ひ出でなければならなかつたのである。一方庭前に控へて居る位の身分の者は、当然にそんなものは許されて居なかつた。即ち独り田に働く人たちだけで無く、一般に足袋は仕事着の品目に算へられなかつたのである。察するに寒い冷たいが最初の理由で無く、やはり又木綿の物珍らしさ、或は肌にふつくりと迫る嬉しさともいふべきものが、偶然に之を我々に結びつけ、後には習ひとなつて、無いことを不幸と感ぜしめる迄になつたのであらう。出井盛之君の「足袋の話」⑩は、我々に此問題を考へさせた最初の本であるが、あれから以後も工場は東西に競ひ起り、機械と工程とは次々に改良を加へられ、統計に出て来る年産額のすばらしさは、殆ど人間に足が幾つあつたかを、もう一度考へさせる位である。人は昔のまゝでも足の生活だけは少なくも変化した。足袋は乃ち仕事着の一部になつたのである。是も始にはたゞ余分な古物の利用であつたらうが、程無く専用の跣足足袋、地下足袋⑪などといふ名が現はれた。護謨や金色の小はぜの興味が、之を誘うたやうにも考へられて居るが、結局はやはり靴の間接の感化と見られる。近頃交際し始めた西洋の諸国が、今少し南の方に在つたなら斯うはならなかつたらう。帽子襟巻手袋耳袋、凡そ我々の採用した身のまはりは殆ど例外も無く皆防寒具であつた。防寒具の完備は勿論冬を面白くしてくれた。しかし足を沾らす④ことを気にすること、足袋の役立つ仕事を好むといふことは、可なり我々には大きな事件である。我邦の水田はどし/\と排水して行くが、是から出て行く先には沼沢が多い。足を沾らして④働くやうな土地だけが、僅に日本人の植民⑫には残されて居るのである。
男女の風貌はこの六十年間に、二度も三度も目に立つてかはつた⑬。それは単なる御化粧の進歩では無いのである。男の方でも男らしさの標準といふものが、誰定むるとも無く別なものになつた。さうして常に現在のものが正しく、振り反つて見れば皆少しづゝをかしい。肩を一方だけ尖らせて跨いであるくやうな歩き方もあつた。袖を入れちがひに組んで小走りする摺足もあつた。気を付けて見ると、何れも履物の影響が大きかつたやうである。下駄は最初から、決して今のやうに重宝なものでは無かつた。著聞集には小馬を足駄だと謂つた人の話があるが、駄といふからには何か基づく所はあつたのである⑭。兎に角に僅か一筋の鼻緒を以て、之を御して行くのは練習を要することで、この足の指の技能にかけては、独歩の誉は日本人に属して居る。一方には又色々の意匠と改良があつた。下駄屋⑮は比較的新らしい商売であつた。それが江戸期の末の頃になつて、盛んに商品の種類を増加し、更に明治に入つてから突如とし生産の量を加へた⑯。桐の木の栽培は是が為に大に起り、しかも国内の需要を充すことが出来なかつた。褻にも晴にも一度でも公認せられたことの無い履物であつたが、其普及は此の如く顕著であつたのは、やはり亦足を汚す④まいとする心理⑰の表はれであつた。藁沓藁草履の衰運は此際を以て始まり、いよ/\簡単なる護謨靴の進出に遭うて、其最後をとぢめられた。個々の農家に於ては又一つ、金で買ふべき品物の数を加へたのである。全体に藁の履物を下賤なもの、貧乏くさいものと考へるのは誤解であつた。是は一つには粗製でも間に合ふ場合には、強ひて体裁を構へなかつたことゝ、又一つには無頓著に、古く破れたものを折々は穿いて出た為で、現在は既に此工芸は衰へたけれども、土地によつてはまだ精巧なる作品を存して居る。たゞ大なる不利益は産物が都市に属せず、また工場の大量産出に適しないことであつたが、麻布などゝ違ふのは、生産の労費は他の何れの品よりも低い。村に此技術の続かなかつた理由は、主として古風であり町の流行で無かつたといふこと⑱ゝ、人が独立して各自の必要品を、考へ得なかつたといふことに在る。さうして斯ういふ例は他の方面にも多いやうである。我々の衣服が次々に其材料を増加し、色や形の好みは目まぐろしく移つて行きながら、必ずしも丸々前のものを滅ぼしてもしまはず、新旧雑処して残つて居たといふこと⑲は、乱雑なやうだが又好都合なことでもあつた。仮に各人が自分の境遇、風土と労作との実際に照らして、遠慮無く望むこと又困ることを表白し得る⑳やうになつたとしたら、もう一度改めて斯ういふものゝ中から、真に自由なる選択㉑をして、末にはめい/\の生活を改良する望み㉒があるからである。