田村和彦– 執筆者 –
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別に第二のそれよりも珍しく、また上品なるもの
1章2節344-19~20 「別に第二の、それよりも珍しく」と読点を加えて読めば、ここでいう「それ」を「禁色の制度」(344-17)の代名詞と捉えられ、この制度的拘束を超える技術、条件をもちつつも、それを具現化、通俗化しなかった理由として、「之を制抑して居た力」(345-2)であるところの第二の禁色、すなわち「天然の禁色」が潜んでいると想定されていることになる。[田村] →拘束、単に材料と色と形とが、自由に選り好みすることを許されているといふまでである、新旧雑処して残つて居たといふこと -
拘束
1章3節345-5 柳田は、『世相篇』のなかで、この「拘束」という語を多用している。この語は、制限、制約といった意味合いで用いられ(3章2節398-8、3章4節404-11など)、その状況下で生活することは「辛抱」(3章1節394-5)、「不便をさへ忍んで居る」(3章5節407-8)とされる。「拘束」の対義語には、「解放」(3章1節394-17)や「自在なる取捨選択」(2章6節385-17)が、容易に解消しがたい拘束には「調和手段」(3章1節394-6)や改良が配置されている。拘束の発生については、「人間の作り設けた」拘束(1章3節345-5)と、「天然」の拘束(1章3節345-5、10章2節532-10など)とに分けられるが、同時代人にとってはそれらがいずれも「前代生活の拘束」(3章1節394-2)、「伝統の拘束」... -
蝶や小鳥の翼の色の中には、しばしば人間の企て及ばざるものがきらめいて居た故に、古くは其来去を以て別世界の消息の如くにも解して居た
1章3節346-6 柳田が蝶に触れるのは、蝶の呼び方に関する民俗語彙研究と、荘子の夢との関連である。鳥については、時鳥(ホトトギス)、郭公(カッコウ)、鳶や鳩の鳴き声(第1章第1節は「鶉の風雅なる声音」が言及される新色音論である)の解釈が口承文芸との関連で議論される。蝶と小鳥の両者の共通点には、羽、翼による往来があるが、「あの世を空の向ふに在るものと思つて居た時代から、人の魂が羽翼あるものゝ姿を借りて、屢々故郷の村に訪ひ寄るといふ信仰があつたものと思はれる」(『口承文芸史考』1947年、⑯506-14~16)、「人の心が此軀を見棄てゝ後まで、夢に現れ又屢々まぼろしに姿を示すのを、魂が異形に宿を移してなほ存在する為と推測した」(『野鳥雑記』1940年、⑫105-6... -
渋さの極致
1章5節351-14 すでに第3節に「渋いといふ味わひ」(347-16~17)が、また第4節には「陰鬱なる鈍色」(351-3)が出てくるが、鈍色(にぶ色)とはにび色ともいい、濃いねずみ色のことで、喪服などに用いられる。定本や講談社学術文庫版では、にびいろとルビが振られてある。渋さとは、柿渋や茶渋に対する味覚の表現から、渋い顔のような苦り切った表情に対してだけでなく、渋い演技のような、派手でなく落ち着いた趣があって、地味で深い味わいを指す場合にも用いられる点が、日本ならではの価値観・美意識だともいえる。具体的には、第3節の「樹蔭のやうなくすみを掛け、縞や模様までも出来るだけ小さくして居た」(345-16~17)が、これに相当する。この価値観・美意識が日本的なのは、... -
新たなる仕事着+制服
1章7節357-16+1章7節358-3 明治政府は、後述の「服装改革の詔」にあるように服制を「風俗」「国体」の問題として捉え、新たな服制を制定するにあたって、『大宝律令』(701年)以来の「制服」という古語を復活させる一方で、公家様式でも武士様式でもない、「洋服」を「新たな仕事着」(357-16)すなわち、制服として採用した。これは、幕末には、「異風」として町民らに禁止された服装であったが、何をもって「国風」(1章6節354-7)とみなすかは、時期文脈において大きく変化しており、柳田は変化の前段階を安易に「国風」、伝統として論じる見解を排する。北方史研究の浪川健治の指摘するように、江戸時代においても、「江戸言葉風俗」に対して「御国之言葉風儀」が対置されて後者... -
殿中足袋御免
1章8節362-5 中国より伝来した履物は、襪(しとうず)と舃(せきのくつ)の組み合わせとして、養老衣服令(えぶくりょう)の礼服と朝服とにも取り入れられている。しかし、襪はひもで結ぶ足を包む袋というべきものであり、指の部位は分かれていない。 他方、皮製の、足を包む履物も存在し、武家の間に普及した。武家においては、礼装では素足が正装とされ、防寒具としての足袋は、病気や高齢を理由に冬季のみ「殿中足袋御免」を願い出て、許可を得た場合にのみ特例として着用することができた。 『日本服飾史』によれば、寛永年間の頃から木綿足袋が現われた(谷田閲二、小池三枝、光生館、1989年)。社会に広く普及するなかで、筒の短い半靴が生まれ、色には流行があったが、男性は紺... -
所謂騒音
1章9節364-9 「騒音」という語が現れ、規制の対象となることは新しい問題であった。東京では、外国人の眼を意識した風俗の改良をめざし、1872年11月に違式詿違(いしきかいい)条例が出された。ここでは、立小便や裸体、肩脱ぎ、入墨が禁止されたが、1878年(明治11) 5月に「街上ニ於テ高聲ニ唱歌スル者但歌舞営業ノ者ハ此限ニアラズ」、「夜間十二時後歌舞音曲又ハ喧呶シテ他ノ安眠ヲ妨クル者」が追加された。末岡伸一によれば、これが最初の騒音規制とされる(「騒音規制の歴史的考察(明治期から第二次世界大戦)」、『東京都環境科学研究所年報』、2000年、207~214頁)。東京に範をとった違式註違条例が各地で制定されるなかで、騒音は規制の対象とされていったが、ここでの騒音...
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