重信幸彦– 執筆者 –
-
比較
1章1節342-7 柳田國男が構想した郷土研究(民俗学)は、常に「比較」することを求めていた。『世相篇』には、二種類の「比較」が説かれている。一つは、この「新しい現象」と「最近に過去の部に編入せられた今までの状態」とを比べ、各自の経験にもとづき生活の変化を理解する「比較」である。もう一つは、第15章で主張される、「地方は互ひに他郷を諒解すると共に、最も明確に自分たちの生活を知り、且つ之を他に説き示す必要を持つて居る」という、比較のダイナミズムの可能性である(667-11)。 前者を縦の比較とするなら、後者は横の比較ということになる。「縦の比較」は、歴史の専門家の力を借りずに歴史を構想するための手続きであり、「横の比較」は、問題を抱えたもの同志が大... -
好み
1章3節345-13 第1章、第2章では、「好み」「好み嫌い」「好き嫌い」などのことばが頻出する。『世相篇』における明治大正期の消費と生産をめぐる生活の構造的変容をめぐる議論のなかで使われる、この「好み」ということばは、近代的な市場経済を駆動する消費者の行動を表す「選好」という経済学の概念に重ねて理解することもできるだろう。 「好み」は、私たちの消費生活における生理的な欲求や、機能的な必要性とは異なる欲望をも可視化する。たとえば柳田が指摘する、色に飽きてまだ着られる服を着なくなるような私たちのありようをもとらえることができる。「好み」ということばで、『世相篇』は、決して合理的でも理性的でもない、ある意味で感覚的な消費を問うことを可能にしたの... -
面白いといふのはもと共同の感激であつた
1章4節348-10 直前で「花木が庭前に栽ゑて賞せられるようになつた」ことと、「酒が遊宴の用に供せられるに至つた」ことを、「相似」した変化としている。 「酒」については、ことに第7章でふれており、そこでは、もともと酒は特別な日の宴にのみ醸して享受していたものを、次第にその宴の経験を、見知らぬもの同士が交流するための場として使うようになり、それとともに信仰から離れて酒を日常的に消費するようになったと指摘されている。その第7章に、この「共同の感激」と呼応する次のような表現がある。「天の岩戸の昔語りにもあるやうに、面白いといふのは満座の顔が揃つて、一方の大きな光に向くことであつた。すなわち人心の一致することであつた」(7章1節476-2~3)。 色の解放... -
問題の共同
1章1節342-17 「純然たる彼らの事件というものは、実際は非常に少ないのである」という数行前のフレーズは、個にのみが責任と解決を負わされる問題はない、という『世相篇』の基本的な姿勢を言い表している。この「問題の共同」はその姿勢を示すことばであり、明治大正期における新たな貧困のかたちとして、零落が一個の家であり個人の問題として現れる、孤立をともなった貧困、「孤立貧」の存在を指摘する第12章第5節で、「異郷他人の知識が今少し精確になり、屢々実情の相似て居る貧窮が、地をかへ時を前後して発現して居ることを学ぶのが、今では自己救済の第一着の順序となつて居る」(第12章第5節570-5~6)と主張する一文と呼応している。そして最終の第15章では、この「孤立貧」... -
藍染
1章5節352-7 第1章5節7行目「紺を基調とする民間服飾の新傾向」を参照のこと。[重信] -
紺を基調とする民間服飾の新傾向
1章5節352-7 ここでは、庶民の日常着として藍染の木綿の衣服が好まれていたことに触れている。柳宗悦『手仕事の日本』(1948年→岩波文庫1985年、181~185頁)の「阿波藍」の記事や竹内淳子の藍の研究にもとづき、この前後の記述について、染料の側から、もう少し詳しく見ておきたい。柳は、「かつては吾々の着物のほとんど凡てが紺染めであった」ため、「阿波藍」は、「日本全土に行き渡」ったという。 藍は蓼科の一年生草本(一年で枯れる草木)で、葉は濃い紫色、花は紅で、阿波の平野にはこの藍が一面に植えられていた。染料はその葉から取った。葉を発酵させて固めたものを「藍玉」とよび、その柔らかいものを「蒅(スクモ)」といった。紺屋はこれを大きな甕に入れて、石灰を加え... -
昂奮
1章3節347-7 1931年に発行された初版『世相篇』の索引には、「昂奮」という言葉が項目としてあげられ、本文の11ヵ所、下位項目の「人造の昂奮」1ヵ所と合わせると12ヵ所が指示されている。使われている箇所は、本文の広い範囲(1章、2章、4章、5章、7章、11章)にわたり、特に、第12章までの明治大正期の日常生活の質的な変化の問題点を記述していく章において使われており、ある程度自覚的に採用されている言葉の一つと考えられる。 そして、「昂奮」のこの初出箇所には、これらの箇所でどのような文脈でこの言葉が使われているかが端的に示されている。「褻と晴」というリズムを中心に展開していた暮らしでは、「昂奮」は「まれに出現」するものとして価値を有していたが、明治大正の... -
褻と晴の混乱
1章3節347-15 褻とは、普段の日常のことを意味し、それに対して晴とは特別な非日常を意味する。たとえば褻着と晴れ着とは、日常の服装と特別な時の装いの区別を表している。第1章では、それまで染色技術の限界により使うことができなかった色、宗教的な禁忌や忌みにより使えなかった色が、近代になって染色技術の発展や宗教的な縛りが弱くなっていくことで、「解放」され使えるようになったことが説かれる。身にまとうことができるようになった色が増えもたらされた選択の自由は、一方で従来の「褻と晴」の秩序の混乱でもあった。 相似的な議論は、第2章の食生活や、第7章の酒をめぐる議論にも見ることができる。 1980年代の都市民俗学以降、民俗学で『世相篇』が語られる際、この「褻... -
婦人洋服の最近の普及
1章7節358-10 遠藤武「衣服と生活」(渋沢敬三編『明治文化史 12 生活』洋々社、1955年所収)によれば、女子の洋装は、1885年(明治18)に婦人の結髪改良がとなえられたことを契機に、東京女子師範学校をはじめ、秋田女子師範など、各地の女子学生たちが用い始め、1886年の天長節の鹿鳴館における大夜会に集まった婦人たちは、ことごとく洋装であったという。 しかし同時に遠藤は、女性の洋装は、男性の洋装に比べて「一般民間においては殆ど受け入れられなかった」とし、その理由として「立式様式」が「職場・学校など」に採用されたのみで一般家庭に普及せず、多くの女性が「自家または主家の座敷生活様式を固守していた家庭内の労働に従事してきたからである」としている。 1925年(... -
全国の木綿反物を、工場生産たらしむる素地
1章5節353-6~7 「素地」とは、「足手に纏わりやすい」木綿を、糊付けして「麻の感触」を保持しようとするなど、手間を加えてまでして、染めやすい木綿を普段着にしようとしたことを踏まえている。木綿の工場生産が発展していく背景に、柳田は、そこまでして木綿を使おうとした人々の「好み」のありようを見ようとしていた。 しかし、遠藤武「衣服と生活」(渋沢敬三編『明治文化史 12 生活』1950年、14~17頁)は、明治期以降に木綿が普及し、綿糸工業が盛んになった直接的な背景を、まず外綿の輸入量の増加に見ようとしている。幕末から明治期にかけて綿の輸入量が内地綿生産高を凌駕し、その一斤の価格は1874年(明治7)には輸入綿29円66銭に対し、内地綿42円70銭、1878年(明治11...
12