注釈– category –
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足を沾らす+足を汚す
1章8節361-11、362-16,18+1章8節363-8 「人が足を沾らして平気で居てもよいか悪いか」という文章について、本節中に散見する「足を沾らす」こと、または「足を汚す」ことを柳田がどう捉えていたのかを解説する。本節には足を沾らすことも含め、足を汚すことについて3ヵ所の言及がある。これを忌避する感覚は、木綿の質感が好まれ、足袋を穿くことが「習ひ」となったことから発生したと柳田は述べ、あわせて、「足を沾らすことを気にすること、足袋の役立つ仕事を好むといふことは、可なり我々には大きな事件」であったとする(362-16~17)。『木綿以前の事』収録の「國民服の問題」(⑨463~467)では、「都市の格別働かない人たちのいゝ加減な嗜好を、消費の標準にさせて気づかずに置... -
婦人洋服の最近の普及
1章7節358-10 遠藤武「衣服と生活」(渋沢敬三編『明治文化史 12 生活』洋々社、1955年所収)によれば、女子の洋装は、1885年(明治18)に婦人の結髪改良がとなえられたことを契機に、東京女子師範学校をはじめ、秋田女子師範など、各地の女子学生たちが用い始め、1886年の天長節の鹿鳴館における大夜会に集まった婦人たちは、ことごとく洋装であったという。 しかし同時に遠藤は、女性の洋装は、男性の洋装に比べて「一般民間においては殆ど受け入れられなかった」とし、その理由として「立式様式」が「職場・学校など」に採用されたのみで一般家庭に普及せず、多くの女性が「自家または主家の座敷生活様式を固守していた家庭内の労働に従事してきたからである」としている。 1925年(... -
縞を知らない国々との交際
1章6節355-5 縞という言葉は江戸時代に入って普及したもので、近世初期の南蛮貿易の輸入品として、南方の島々からやってくる織物が島木綿と呼ばれたこと由来する。縦横の意匠をあしらった縞模様の布製品が存在する国は、インド、中国などであり、江戸ではインド・サントメ産の桟留縞(さんとめしま)、ベンガル産の弁柄島(べんがらしま)などが流行した(松田毅一「南蛮風俗」『国史大辞典』吉川弘文館、1989年)。柳田は、近世に麻から木綿へと衣生活が変化する過程で、様々な模様を描き出す工夫が女性たちによって行われたことが縞の発達に影響を与えたと指摘している(「女性史学」『木綿以前の事』1939年、⑨607~608)。 欧州で縞の意匠は一般的でなく、開国後の綿布の輸出におい... -
理由があつて中央の平坦部などには、その仕事着が早く廃れてしまつた
1章7節358-14~15 仕事着(野良着・労働着)の形態は、表1のように、(1)上半身・下半身につける衣服が分かれていない一部構成ワンピース式のものと、(2)上半身につける上衣と下衣が分かれる二部構成のものに大別され、後者はさらに①腰巻型②股引型③山袴型の三つに分けられた。「理由あつて中央の平坦部など」において仕事着が廃れたとは、大都市の衣生活の波及によって、裾を端折って襷がけをする普段着の転用が起きたという意味だろう。東北地方や山間部では山袴型が分布していたことから、当時、柳田の脳裏には周圏論的な型式学的広がりが想定されていたように思われる。第1次世界大戦後の1920年に文部省の半官半民の団体として設置された生活改善同盟会が、1931年に編纂した『農... -
縮み
1章5節353-5 苧麻(ちょま)で織った縮織りのことで、明石産や小千谷産が有名。横糸に強い撚りをかけた右撚り(右回りに捻る)と左撚り(左回りに捻る)の糸を交互に織ったもので、温湯の中で揉んで処理すると、布が縮み生地の表面にシボと呼ばれる凹凸が現われる。越後麻布に改良を加えて完成した小千谷縮は、シボのある独特の風合いで高い評価を得て、魚沼地方を産地とする越後上布とともに1955年に国の重要無形文化財に指定され、2009年にはユネスコの無形文化遺産にも代表一覧に記載された(平織のものを越後上布、縮織を小千谷縮と呼ぶ)。絹の縮織りしたものが縮緬(ちりめん)で、丹後縮緬、浜縮緬(滋賀長浜)が有名。なお、第6節の「流行に対する誤解」に出てくる「唐縮緬」(... -
全国の木綿反物を、工場生産たらしむる素地
1章5節353-6~7 「素地」とは、「足手に纏わりやすい」木綿を、糊付けして「麻の感触」を保持しようとするなど、手間を加えてまでして、染めやすい木綿を普段着にしようとしたことを踏まえている。木綿の工場生産が発展していく背景に、柳田は、そこまでして木綿を使おうとした人々の「好み」のありようを見ようとしていた。 しかし、遠藤武「衣服と生活」(渋沢敬三編『明治文化史 12 生活』1950年、14~17頁)は、明治期以降に木綿が普及し、綿糸工業が盛んになった直接的な背景を、まず外綿の輸入量の増加に見ようとしている。幕末から明治期にかけて綿の輸入量が内地綿生産高を凌駕し、その一斤の価格は1874年(明治7)には輸入綿29円66銭に対し、内地綿42円70銭、1878年(明治11... -
麻の第二の長処
1章5節353-8 麻から木綿へという素材の変遷は、特に「木綿以前の事」(1924年、⑨429~435)において議論された問題として知られている。ただし、「木綿以前の事」を巻頭に置く『木綿以前の事』(創元社、1939年、⑨)には、「何を着ていたか」(1911年、⑨436~444)、「女性史学」(1936年、⑨600~631)も収録されており、木綿が変えたものについて、柳田が人びとに繰り返し説いていたことが知れる。「女性史学」において、柳田は「是からの社会対策」のために「予め知つてかゝらねばならぬ歴史」という認識のもと、当時の衣類が日本の気候風土において不合理であることを指摘し、かといって立ち返ることのできない「木綿以前」の衣類として麻布の時代を捉えている(⑨610-3)。 引き続き... -
明治二十九年の綿花関税の全廃
1章5節353-19~20 1896年法律第57号「輸入綿花海関税免除法律」による措置。同法の全文は、「外国ヨリ輸入スル綿花ハ明治二十九年四月一日ヨリ海関税ヲ免除ス」。紡績業の勃興にともなって輸入綿花の使用量が増大してくると、紡績業界では、綿花輸入税と綿糸輸出税は、コスト上昇の要因で国際競争力を削ぐものであるとして、廃止を要求する声が高まった。これに対し、国内の綿花生産者は、大日本農会を中心に綿作保護運動を展開した。当初は関税収入が減少することを理由に政府は躊躇していたが、1894年にまず綿糸輸出税を、そして2年後に綿花輸入税を廃止した。これによって紡績業の発展は加速したが、国内の綿花栽培は大打撃を受けた。柳田は、この法律などなくとも日本綿は同じ運命... -
紡績の工芸が国内に発達してくると共に
1章5節354-1 明治10年代中頃から、輸入綿の増加とともに紡績工場が全国に増えていく。そうなるともはや、人々はいちいち洗濯のたびに木綿に糊付けして、かつての麻の感触を保とうとするような手間を自らかけることなく、外部から与えられた木綿そのものの「湿って肌に付く」感触を受け入れるようになったというのである。 輸入綿と工場生産に押されるかたちで、木綿の自家生産が行われなくなっていった。遠藤武「衣服と生活」(渋沢敬三編『明治文化史 12 生活編』1950年所収、14~17頁)は、その間の経緯を次のように説明している。明治期の綿栽培は、1883年(明治16)の全国綿花作付面積9万9389・6町から、1897年(明治30)には4万4444町へと、半減していった。各地で綿作が中止さ... -
腰きり、小衣
1章7節359-6 臀部が半分隠れる程度の丈の短い仕事着をコシキリ、コシビン、コギン、コギノなどという例は全国に見られ、麻、あるいは木綿製の裏地の無い単衣の上着のことをさす(「コシキリ」「コギン」『綜合日本民俗語彙』2巻、平凡社、1955年)。腰切り半纏ともいう。[加藤] →婦人洋服の最近の普及 腰切り半纏を着た植木屋の姿を描いた小説の挿絵。出典:「小説:吾嬬琴(3)」『大阪毎日新聞』1894年(明治27) 9月24日号