注釈– category –
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花作り
1章4節349-13 「前栽」の記述(348-10~11)からも分かるように、ここでの柳田は、蔬菜などではなく、花卉を栽培することを限定的に、かつ一般的に表現するものとして、「花作り」という語を用いている。よって、蔬菜栽培・果樹栽培などとは別に花卉栽培というのに、ほぼ等しい。 そうした「花作り」が、江戸時代に大規模化していく経路として、まずは大名屋敷などで珍しい植物を育てることの流行がある。富豪などでも同様の試みをするものが増え、なかには花屋敷・梅屋敷などという名で、庶民に公開されたものもあった。そうしたもののひとつで、現在も続く向島百花園は、1809年に開園している。このように都市の庶民も花を愛でる文化を共有していた。また、こうした動きと関連するが... -
買縞
1章6節354-15 注文によって織らせた縞織物でなく、店で買う既製の縞織物のことで、安っぽい出来あいのものを意味する。「縞は外国から入つて来た流行らしい」(355-2)とは、古くは日本語にその名はなく、平行の縞模様は、筋や条、段、また縦横に交差するものを格子と呼んでいた。16世紀以降、南方からの舶載品として縞地の織物が流行し、これを「島渡り」「島物」などと呼んだことから転じて、複数の線から成る文様を「縞」と呼ぶようになったが、江戸前期には縦縞は遊女などが用いる異装に属する意匠と見なされ、横縞が主であった(丸山伸彦「縞」『江戸のきものと衣生活』小学館、2007年)。第3節に「縞や模様までも出来るだけ小さくして居た。さうして是が亦衣裳以外の、種々なる身... -
明治年代の一大事實
1章4節349-15 近代以前から日本における帰化植物は徐々に、その数を増やしたと考えられるが、開国以降、爆発的にその種類は増加した。横浜や神戸の来日外国人が設立した商社は、日本から多くの植物を欧米に輸出し、それとともに海外から洋種花卉の導入にも努めている。明治初期の東京では江戸川、多摩川の土手で花の取引が行われており、国内で花卉類の輸出入を目的とする横浜植木商会、新井清太郎商店などが設立されたのは明治中頃である。主要な園芸植物の多くはこの時代に導入された。明治後期から大正期にかけては、各地で花問屋が活動するようになり、花屋の数も増加していく。関東大震災以降、花問屋は花卉市場へと活動の場を移し、昭和期に入ると地方にも花卉市場が誕生した(「... -
山本修之助
1章5節352-12 山本修之助(1903-1993)は、佐渡の郷土史家、民俗学者にして俳人。新潟県佐渡郡真野町(現・佐渡市真野新町)で、本陣であった山本半右衛門家に生まれ、家蔵の史料等を個人で整理した『佐渡叢書』佐渡叢書刊行会、1957~1982年、全16巻を編纂したのをはじめ、数多くの著書がある(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』相川町、2002年)。ここに引用された盆踊唄は、山本の『佐渡の民謡』は、地平社書房、1930年刊。晩年、付近にあった順徳天皇陵の宮内庁書陵部の陵墓守長として20年勤務したが、柳田の二度目の佐渡来島時(1936年)に行った厳格な陵墓参拝のエピソードは、山本の「来島の民俗学者」『佐渡の百年』佐渡の百年刊行会、1972年に記されてある。[岩本] -
木綿の感化
1章5節352-17~18 「木綿の感化」とは前後の文脈から明らかであるが、「若い男女が物事に感じ易く」(352-17)とあり、「幾分か人に見られるのを専らとする傾きを生じ、且つやゝ無用に物に感じ易くなつて来た」(353-4~5)と述べるのは、第8章「恋愛技術の消長」などの伏線となっている。1924年に執筆した「木綿以前の事」で、柳田は「色ばかりか(…)木綿の衣服が作り出す女たちの輪郭は(…)袷の重ね着が追々と無くなつて、中綿がたつぷりと入れられるやうになれば、又別様の肩腰の丸味ができて来る。(…)それよりも更に隠れた変動(…)は、歌うても泣いても人は昔より一段と美しくなつた。つまりは木綿の採用によつて、生活の味はひが知らずゝゝの間に濃かになつて来た」(⑨431-4... -
学生が制服に足駄をはき、ズボンに帯を巻いて手拭を挟んだりすることは、三四十年前から今も続いて居る
1章7節358-3 30~40年前とは、おおよそ1890~1900年の間のことで、柳田(旧姓松岡)の学生時代と重なっている。海軍士官服に倣った詰襟の導入は学習院の1879年(明治12)が早いが、東京帝国大学でも1886年には陸軍式の詰襟・金釦を用い、角帽と合わせて制服とした。以後、各地の中等教育以上の学校に普及するが、制服(洋服)は高価だったため、木綿絣に足駄(主として雨天用の高下駄をいう)を履き、学帽のみを被る姿が一般的だった。足駄に手拭とは、未舗装のぬかるみ道が多く、洗足の盥で、足を洗う機会が多かったことによる。1964年の東京オリンピック開催に合わせて、道路の舗装化が進む。東京都の舗装率は1960年の16.7%が65年に46.8%、75年に69.3%、85年に76.9%と急上昇する... -
初期の勧農寮の政策
1章4節349-17 「勧農寮」は、1871年8月から翌年10月にかけて、大蔵省内に存在した殖産興業、とりわけ農業奨励のための部局。しかし「初期の勧農寮」という表現から、柳田は、その時期に限らず、それ以前の民部省勧農局や大蔵省勧業司・勧業寮、1873年末の内務省設置にともなう同省の勧業寮、さらにはその後進のひとつである勧農局などの総称として使用しているようで、明治初期の勧農政策というのとほぼ等しいだろう。「北海道の米国式農政」というのは、1871年9月に開園した開拓使官園などのこと。開拓使顧問の米国人ホーレス・ケプロン(1805-1885)が指導し、東京の青山などに設けられた。1874年に農業試験場と改称したが、1881年に民間に払い下げられ、翌年廃止された。官園の成果... -
家の内仏に日々の花を供へるやうになつた
1章4節350-4 柳田は盆棚が常設化して仏壇になったと考えており(『「四一 常設の魂棚」1946年『先祖の話』⑮76~77)、ここでは仏壇に日々の花を供えるのも「近代」のものとしている。その背景に、いつでも花が手に入るようになった流通の発達、および新種の増加を想定しているが、そのために花を手に入れて捧げることに対する特別な心持ちは失われたのである。なお仏壇の起源は諸説あるが、17世紀の寺請制度によって檀家となった家が、位牌を置く棚を設けたことに端を発するとされる(森隆男『住居空間の祭祀と儀礼』岩田書院、1996年)。[加藤] →盆花、花木が庭前に栽ゑて賞せられる、町でも花屋が来ぬ日、赤い花 -
牽牛花
1章4節350-9 節のタイトルで使った朝顔を、ここでは牽牛花と漢語由来の字で表記したのは、日本への渡来が薬用植物として持ち帰った遣唐使によることに、注意を向けさせるためかと思われる。世界的にみても、品種改良が最も発達した園芸植物で、観賞用に多種多様に変化した。変わり咲朝顔とも呼ばれる変化朝顔の主だった変異は、文化文政期の第一次ブームの際に起こり、嘉永安政期の再度のブームを経て、明治中期に再び流行した。7月七夕前後の3日間に入谷鬼子母神で催される朝顔市や、7月9日10日の両日に浅草寺で催されるほおずき市も、いずれも赤い花や実を賞することが、その基調となっている。鬼灯の実は、お盆に祖霊を導く提灯に見立て、枝葉付きで精霊棚に飾られる。なお、貞包英... -
洗濯
1章5節353-4 同じ行にある「糊」「打ち平めて」を含め、かつての洗濯の手順を振り返っておく。和服の洗濯には、丸洗いや部分洗いのほかに「洗い張り」があった。縫い合わせた衣服の状態から、糸を抜き、布の形状に解き離し、「端縫い(はぬい)」をして反物に戻して、洗浄する「解き洗い(ときあらい)」ののち、皺を伸ばし艶を出す「張り」の作業を経て、洗濯糊(ふのり)を付けて、仕上げとなった。洗い張りとは、基本的にここまでの作業工程を指し、反物の形状を、元の着物や別な着物に「仕立て直し」するのは、別な工程だった。 自分で直すこともできるが、前者の工程を行う洗張り屋と、後者の仕立て屋に、職人は分かれた。褪せた色の「染め返し」や「染め替え」をする場合もあり、...