注釈– category –
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町でも花屋が来ぬ日
1章4節349-9~10 柳田は花屋を店舗営業ではなく、行商の花屋を想定している。店を構えず,商品の名を大声で呼びながら売歩いた行商人のことを、振り売りと呼ぶ。天秤棒を用いるときは、棒手振(ぼてふり)とも呼んだ(「棒の歴史」『村と学童』⑭)。特に女性と商業との関係は、民俗学では販女(ひさぎめ、ひさめ)と称し、その物売り行為を古くから着目してきた(瀬川清子『販女』三国書房、1943年、北見俊夫『市と行商の民俗』岩崎美術社、1970年)。京都では平安中期から白川女(しらかわめ)と呼ばれる花売りが、「花いらんかえー」と触れながら頭上運搬で花を売り歩いた。白川女は京都市北東部の比叡山裾野を流れる白川の、両岸近辺に暮す北白川の女性たちで、売り方はリヤカー販売... -
紺を基調とする民間服飾の新傾向
1章5節352-7 ここでは、庶民の日常着として藍染の木綿の衣服が好まれていたことに触れている。柳宗悦『手仕事の日本』(1948年→岩波文庫1985年、181~185頁)の「阿波藍」の記事や竹内淳子の藍の研究にもとづき、この前後の記述について、染料の側から、もう少し詳しく見ておきたい。柳は、「かつては吾々の着物のほとんど凡てが紺染めであった」ため、「阿波藍」は、「日本全土に行き渡」ったという。 藍は蓼科の一年生草本(一年で枯れる草木)で、葉は濃い紫色、花は紅で、阿波の平野にはこの藍が一面に植えられていた。染料はその葉から取った。葉を発酵させて固めたものを「藍玉」とよび、その柔らかいものを「蒅(スクモ)」といった。紺屋はこれを大きな甕に入れて、石灰を加え... -
麻しか産しない寒い山国でも、次第に麻作を手控へて
1章6節354-14 木綿に取って代わられたとはいえ、麻づくりがただちに消滅したわけではなく、『世相篇』の時代においても、麻の衣類は着用され、また、麻の栽培も継続していた。そもそも、綿花の栽培は温暖で湿潤な気候が適するといい、国内でも綿花栽培は東北地方では成長しなかった(永原慶二『苧麻・絹・木綿の社会史』吉川弘文館、2004年)。『木綿以前の事』収録の「何を着ていたか」において、柳田は熊本県の九州製紙会社を見学した際に紙の原料となる古麻布を東北から取り寄せている事実に注目し、同地方では冬でも麻布を着用していたことを報告している(⑨438)。すなわち、「寒国には木綿は作れないから、一方には多量の木綿古着を関西から輸入して、不断着にも用ゐて居るが、冬... -
昂奮
1章3節347-7 1931年に発行された初版『世相篇』の索引には、「昂奮」という言葉が項目としてあげられ、本文の11ヵ所、下位項目の「人造の昂奮」1ヵ所と合わせると12ヵ所が指示されている。使われている箇所は、本文の広い範囲(1章、2章、4章、5章、7章、11章)にわたり、特に、第12章までの明治大正期の日常生活の質的な変化の問題点を記述していく章において使われており、ある程度自覚的に採用されている言葉の一つと考えられる。 そして、「昂奮」のこの初出箇所には、これらの箇所でどのような文脈でこの言葉が使われているかが端的に示されている。「褻と晴」というリズムを中心に展開していた暮らしでは、「昂奮」は「まれに出現」するものとして価値を有していたが、明治大正の... -
新たなる仕事着+制服
1章7節357-16+1章7節358-3 明治政府は、後述の「服装改革の詔」にあるように服制を「風俗」「国体」の問題として捉え、新たな服制を制定するにあたって、『大宝律令』(701年)以来の「制服」という古語を復活させる一方で、公家様式でも武士様式でもない、「洋服」を「新たな仕事着」(357-16)すなわち、制服として採用した。これは、幕末には、「異風」として町民らに禁止された服装であったが、何をもって「国風」(1章6節354-7)とみなすかは、時期文脈において大きく変化しており、柳田は変化の前段階を安易に「国風」、伝統として論じる見解を排する。北方史研究の浪川健治の指摘するように、江戸時代においても、「江戸言葉風俗」に対して「御国之言葉風儀」が対置されて後者... -
褻と晴の混乱
1章3節347-15 褻とは、普段の日常のことを意味し、それに対して晴とは特別な非日常を意味する。たとえば褻着と晴れ着とは、日常の服装と特別な時の装いの区別を表している。第1章では、それまで染色技術の限界により使うことができなかった色、宗教的な禁忌や忌みにより使えなかった色が、近代になって染色技術の発展や宗教的な縛りが弱くなっていくことで、「解放」され使えるようになったことが説かれる。身にまとうことができるようになった色が増えもたらされた選択の自由は、一方で従来の「褻と晴」の秩序の混乱でもあった。 相似的な議論は、第2章の食生活や、第7章の酒をめぐる議論にも見ることができる。 1980年代の都市民俗学以降、民俗学で『世相篇』が語られる際、この「褻... -
これ以外にも鬱金とか桃色とか、木綿で無くては染められぬ新しい色が、やはり同じ頃から日本の大衆を悦ばせだした事
1章5節352-9~10 柳田は『木綿以前の事』で、俳諧七部集の『炭俵』にある「はんなりと細工に染まる紅うこん」などを紹介し(⑨429、⑨606)、次のように続ける。木綿が若い人たちに好まれた理由として、「第一には肌ざはり」、「第二には色々の染めが容易なこと、是は今までは絹階級の特典かと思つて居たのに、木綿も我々の好み次第に、どんな派手な色模様にでも染まつた。さうして愈々棉種の第二回の普及の効を奏したとなると、作業は却つて麻よりも遥かに簡単で、僅かの変更を以て之を家々の手機で織出すことが出来た」(⑨430—13~17)と述べている。 すなわち、芭蕉翁の頃、庶民の服の素材が麻から木綿へと変わっていった時期と、色彩文化史を専攻される國本学史氏のご教示によれば、... -
以前の渋いといふ味ひを懐かしく思ふ
1章3節347-16~17 社会/文化変化へのリアクションとして、過去への憧憬が発生するという議論は、日本の民俗学においては1980年代から90年代にかけてドイツ語圏民俗学のフォークロリスムス(フォークロリズム)という概念が紹介されてから、特に2000年代以降に関心を集めるようになった。とくに過去への憧憬に呼応して提供される表面的な昔風の演出をめぐる議論が蓄積されている。こうした現象の背景としては、急速な文化の変化や社会変動をその渦中で体験している人びとが抱く、現在への不安なり不満との関連が指摘されている(法橋量「記憶とフォークロリスムス」『記憶―現代民俗誌の地平3』朝倉書店、2003年。岩本通弥「都市憧憬とフォークロリズム」『都市とふるさと―都市の暮らし... -
赤い花
1章4節349-12 小林一茶の「赤い花」の俳句は、自分の亡くなった娘を思って詠んだものである。赤い花が好きだった娘も生前はそれを摘むことが叶わず、亡くなって初めて手向けられたという意味だが、この俳句は赤い花が死者と深く結びつくものであったことを暗示している。 柳田は「地梨と精霊」という文章の中で、長野県東筑摩郡の各村の精霊棚に林檎を糸に結わえて引きかける例が多いことを紹介し、これが明治以降の文化であるとして、以前は地梨、すなわち草木瓜(クサボケ)の実だったと推測している。ボケも赤い花と実をつけ、庭にこの木を植えることは忌まれたが、柳田は「赤い果物」を盆の精霊に供へる習慣は「気を付けて居ると他の地方にも有るやうだ」と述べており、東北のハマ... -
人が足を沾らして平気で居てもよいか悪いか
1章8節361-11 柳田はここでなぜ「足を『濡』らして」ではなく、「足を『沾』らして」と書いているのだろうか。小川環樹ほか編『角川新字源』(改訂版、1994年)によると、沾は水と音符占→黏とから成り、水がつき、「うるおう」意で霑に同じ。濡は水と音符需から成り、もと川の名。ともにうるお−ふ(う)、うるお−す、ぬ−る(らす)などと訓む。字義において、沾(霑)は衣服・土地・山林の類がしっぽり全体にしめりうるおう意なのに対して、濡はびっしょり、しずくのたれるようにぬれる意(同上、1259頁の「同訓異義」参照)。柳田はここで「沾らして」と言っているのは、びっしょり「濡れる」のではなく「しめりうるおう」のであるから、沾の字を用いるのは用字として正確である。[白...