注釈– category –
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一箇のアヤといふ語を以て
1章3節346-20 「単に一箇のアヤといふ語を以て、心から心へ伝へては居たが(…)失神恍惚の間に於て、至つて細緻なる五色の濃淡配合を見て居た」(346-20~347-1)のおけるアヤとは、物の表面に現われたさまざまな形や模様で、特に斜めに交わった模様を指す。漢字で表わすと、彩、綾、絢、文などになるが、例えば「人生の―」といえば、表面的には見えないものの、辿ると見えてくる社会や世の中の入り組んだ仕組みを指している。柳田がここでアヤと表現したのは、初宮参りのあやつこ(額に墨付けされた交差する印)、あやご(宮古島の語りもの)、言葉の綾、綾言葉(真実に反して言葉を飾りたてる意である綺語)、あやかし(妖怪の古語)、あやかり(感化されて同じようになるの意)、あ... -
山茶花
1章4節349-1 椿の流行に続き、山茶花や木瓜(ぼけ)の流行で、近世日本の園芸の目まぐるしい発達を述べている。ここでは山茶花には漢名しかなく、帰化植物のように書かれてあるが、1938年の「白山茶花」では「花卉を愛玩する流行の始めは、一々の記録こそは得がたいが、少なくとも大名等が戦ひをしなくなつて後に相違ない。紅とか斑入とかの色々の珍種とともに、をかしなサザンクヮなどゝいふ名称が入つて来て、それが上層の間に行はれた結果、今まであつた凡庸の白山茶花までが、其中に巻き込まれてしまつた」とし、古名はカタシといって油をとった樹木だったと論じている(「白山茶花」1938年『豆の葉と太陽』⑫232)。[岩本] →日常+日常化、一方の流行の下火は、いつと無く其外側... -
綿年貢の算法
1章5節352-2~3 元禄期以降、畿内を中心とする地域で綿作が盛んになるが、従来の検見取法では、その成果を十分に取り立てることが困難になっていった。これに対し、享保期以降の幕府における年貢増徴の実務を担当した神尾春央(かんおはるひで)は、田方木綿勝手作法を施行し、田地への綿作をはじめとする商品作物の作付は、すべて稲作の上毛なみの年貢を賦課する手段を実施した。一方、畑地は、その等級に応じて年貢を定める畝引検見(せびきけみ)から、現実の綿作生産力を直接把握する有毛検見(ありげけんみ)を1744年(延享元年)に施行し、これに基づくかたちで年貢を取り立てていった(佐藤常雄「木綿検見」『国史大辞典』4巻吉川弘文館、1984年)。[加藤] →紺を基調とする民... -
所謂洋服も亦とくに日本化して居る
1章7節357-4 本節には「洋服」と「ヨウフク」という二通りの表記がみられる。『世相篇』全体で「洋服」は9ヵ所に登場し、そのうち7ヵ所が第1章第7節に集中している。残りの2ヵ所は、第2章「食物の個人自由」第7節「肉食の新日本式」であり、洋食をめぐる議論のなかで言及があり(388-7)、もう1ヵ所は第10章「生産と商業」第1節「本職と内職」のなかで、仕事着の洋服化によって、衣服を家人が製作する生活が変わる可能性が示唆されている(526-9)。 一方、「ヨウフク」は第1章第7節に3ヵ所見出せる。一つ目が第7節冒頭の「ヨウフクといふ語が既に国語であると同じく、所謂洋服も亦とくに日本化して居る」(357-4)という発言であり、2ヵ所目は「ヨウフクの発見は至つて自然である」と... -
色の種類に貧しい国
1章2節344-1 第6節で論じられる「和田三造画伯の色彩標本は五百ださうだ」(356-18)のように、日本では色彩は豊かでありながら、色名が少なかったことは、和田三造の研究か教示に依ったのであろう。最初に出てくる「日本は元来甚しく色の種類に貧しい国であつた」(344-1)というのは、たぶん記紀に登場する色が白・黒・紅・赤・丹・青の6色にすぎなかったということや、『延喜式』に記載された色相が38色であることに基づいている(内田広由紀『定本和の色事典増補特装版』視覚デザイン研究所、2008年)。また「少しちがつたものは悉く外国の語を借りている」(344-3)とは、くれない(呉の藍)、からくれない(唐紅・韓紅)、べんがら(紅殻、ベンガル)などを指している。えんじ色... -
染物師
1章2節344-17 「染物師は其中でも比較的新しい出現」(344-17)というのは、草木染めや渋柿染めなどの天然染料で、自ら染める手染(344-18)があまねく中に現われた、紺屋のことを指している。近世、麻に代って棉の栽培が広まるにつれ、次第に藍染めが発達し、当初町住みで渡り歩きの多かった紺屋が、村に定住し始めた。『都市と農村』で「染物師が民間染料の尚盛んに用ゐられる時代に入つて来て、秘伝と花やかなる出来上りとを以て、僅かな期間に農村の嗜好を一変させ、その独自の地盤を開拓した」(「職人の都市に集まる傾向」④244-13~14)と述べるように、村々に定着した染物屋は、錬金術師や魔法使いのように特殊な能力を持つ者として、当初、異人視された。その屋敷跡を、紺屋屋... -
藍染
1章5節352-7 第1章5節7行目「紺を基調とする民間服飾の新傾向」を参照のこと。[重信] -
別に第二のそれよりも珍しく、また上品なるもの
1章2節344-19~20 「別に第二の、それよりも珍しく」と読点を加えて読めば、ここでいう「それ」を「禁色の制度」(344-17)の代名詞と捉えられ、この制度的拘束を超える技術、条件をもちつつも、それを具現化、通俗化しなかった理由として、「之を制抑して居た力」(345-2)であるところの第二の禁色、すなわち「天然の禁色」が潜んでいると想定されていることになる。[田村] →拘束、単に材料と色と形とが、自由に選り好みすることを許されているといふまでである、新旧雑処して残つて居たといふこと -
一方の流行の下火は、いつと無く其外側の、庶民の層へ移つて行つた
1章4節349-2~3 定本柳田國男集や講談社学術文庫では「一方の上流の流行の下火は、いつとなくその外側の、庶民の層へ移っていった」と「上流」という語が加筆されている。この節だけでも「流行を始めた人たちは娯楽であつたかも知れぬが、それが普及するには別に又是だけの理由があつた」(349-10~11)とか、「所謂玄人たちはもう省みなくなつてからも、変つた色々の花が地方に普及し」(350-16)とするように、流行の都市・上流における発生と、地方・庶民への文化普及の方向性を、繰り返し説いている。「流行」を始めた人たちと区別し、普通の人びとの「心の変化」(349-5)という「普及」の理由を問うことや、流行が習俗として埋め込まれていく過程を、柳田は課題に据えているとい... -
外国旅客の見聞記
1章4節349-5 有名なのものとして、プラントハンターとして知られる英国人ロバート・フォーチュン(1812-1880)の見聞記にある、「住民のはっきりした特徴は、身分の高下を問わず、花好きなことであった」にはじまる記述がある(『幕末日本探訪記 江戸と北京』講談社学術文庫、1997年、32頁以下)。フォーチュンは、1860年に長崎から日本に入国してすぐに、こうした印象を記している。ただしこれは『世相篇』刊行より70年前のことであり、「近頃」というにはあまりに遠い。また「毎度有る」(349-6)とあるように、柳田自身これを定型的な記事と捉えているため、そもそもひとつの出典を確定することは難しい。しかしたとえば、ジャパン・ツーリスト・ビューローが刊行していた雑誌『ツ...