注釈– category –
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実験の歴史
1章1節342-9 柳田はこの「実験の歴史」の前に、「実験法」(341-10)という言葉を用い、その前後で、「方法」(341-7)「法則」(341-8)「調査」(341-8)「観察」(341-15)という語を用いている。「実験」という語は、他にも見えているが(342-14,19)、自序でも「採集」(337-13)「分類」(337-13)「標本」(338-8)「観察」(337-11)など、自然科学の論文と見間違うほどの用語法で、文章を埋め尽くしている。本書冒頭での、この記述は、単なる文飾を施したのでなく、自然主義運動(ナチュラリズム)の下、「実験の人文科学」として「実験の史学」(1935年、㉒416-3)を打ち立てたいとする、その意気込みが窺える箇所となっている(定本㉕では「実験の史学」と改題されているが... -
外部の文明批評家
1章1節342-10~11 「文明批評家」とは、文明を批評することを業とし、主に論壇で活動する人のこと。もっとも、ここでは、「同じ流に浮ぶ者」の「外部」に位置し、そこから世相を論断する人物というより広い意味に用いられており、「一個特殊の地位に在る観察家の論断」(「自序」339-18)と同じものを指す。「鴨の長明とか吉田兼好とかいふ世捨人」以外に具体的な人名の例示はないが、高山樗牛(1871-1902)や長谷川如是閑(1875-1969)、さらには大宅壮一(1900-1970)あたりを念頭に置いた語と思われる。 そしてそれが「外部の」ものであることに、ここでの力点はある。柳田は、「外部の文明批評家」による論断を鵜呑みにする態度をみじめと評し、「実験の歴史」を試みようと提案する... -
面白いといふのはもと共同の感激であつた
1章4節348-10 直前で「花木が庭前に栽ゑて賞せられるようになつた」ことと、「酒が遊宴の用に供せられるに至つた」ことを、「相似」した変化としている。 「酒」については、ことに第7章でふれており、そこでは、もともと酒は特別な日の宴にのみ醸して享受していたものを、次第にその宴の経験を、見知らぬもの同士が交流するための場として使うようになり、それとともに信仰から離れて酒を日常的に消費するようになったと指摘されている。その第7章に、この「共同の感激」と呼応する次のような表現がある。「天の岩戸の昔語りにもあるやうに、面白いといふのは満座の顔が揃つて、一方の大きな光に向くことであつた。すなわち人心の一致することであつた」(7章1節476-2~3)。 色の解放... -
歴史は他人の家の事績を説くものだ、といふ考を止めなければなるまい
第1章第1節342-14~15 これに続けて柳田は、問題の立て方によって「他人にもなれば、また仲間の一人にもなるので、しかも疑惑と好奇心とが我々に属する限り、純然たる彼等の事件といふものは、実際は非常に少ない」と論じる(342-15~16)。彼は民俗学も広い意味での歴史だと位置づけたが、それは歴史学(文献史学)の補助科学という意味ではない。『世相篇』は世相史とも呼ばれるが、感情や感覚といったあくまで個人的な心意を掬い取りつつも、その中の共同的な「生」のあり様や仕組みの変化を、総体的なプロセスとして具体的に描こうとした。「歴史」を私たちの側に引き寄せて、自らの問題として考え、足元からその過去を問う態度や精神を、彼は「史心(ししん)」と呼んだ。あくまで... -
前栽といふのは、農家では蔬菜畠のこと
1章4節348-11~12 家の前庭に植えた草木を前栽といい、「せざい」ともいう。『蜻蛉日記』(975年)に「せんざいの花、いろいろに咲き乱れたるを」とあるように、平安時代の貴族は前栽に趣向を凝らし、「前栽合」でその優劣を競った。翻って庶民は、庭先で野菜などを栽培していたことから、後に野菜、青物は「前栽物」と呼ばれるようになる。これを略して前栽ともいった。大槻文彦『言海』(1886年)によると「蔬菜」の語は18世紀半ばごろから広く見られるようになり、それ以前は「な」「あおもの」が一般的だったようである。このころから前菜を蔬菜畠というようになったと考えられる。近世の町において人々が庭で野菜を栽培するのは普通だったが、これが近代に入って衰退し、都市の人... -
問題の共同
1章1節342-17 「純然たる彼らの事件というものは、実際は非常に少ないのである」という数行前のフレーズは、個にのみが責任と解決を負わされる問題はない、という『世相篇』の基本的な姿勢を言い表している。この「問題の共同」はその姿勢を示すことばであり、明治大正期における新たな貧困のかたちとして、零落が一個の家であり個人の問題として現れる、孤立をともなった貧困、「孤立貧」の存在を指摘する第12章第5節で、「異郷他人の知識が今少し精確になり、屢々実情の相似て居る貧窮が、地をかへ時を前後して発現して居ることを学ぶのが、今では自己救済の第一着の順序となつて居る」(第12章第5節570-5~6)と主張する一文と呼応している。そして最終の第15章では、この「孤立貧」... -
椿の花が流行
1章4節348-15 江戸における椿の流行は、1643年(寛永20)刊の『あづまめぐり(別名・色音論)』に見られ、江戸の市井の出来事を記した『武江年表』(斎藤月岑著、正編1850年、続編1882年)にも、その記述が引用されている。当時の人びとは品種改良や突然変異による「変わりもの」を珍重し、「百椿図」(17世紀・伝狩野山楽筆)などの絵画も描かれた。柳田は、日本全国に広く分布する椿が、人々の信仰と深く関わるかたちで広がったと考えた。特に寒冷地の北日本にまで椿が分布するためには、「人間の意志」が不可欠であるとし、「天然記念物」ではなく「史跡記念物」である可能性を示唆している。八百比丘尼が持ち歩いたとされる玉椿の枝や、東北の民間宗教者の呪具である椿の槌、卯月八... -
露出の美を推賞しなければならぬ機運
1章8節361-8 これに続く「不思議なる事実」(361-9)とは、西洋諸国との関係が、生活の中での身体露出を制限しようとする流れを生む一方、美的表現としての身体露出を取り込もうとする流れをも生み、それらが軋轢を生じていたということである。ここでいう「露出の美」は、西洋美術の伝統的な画題である「裸婦」に代表される裸体画である。 フランスで美術教育を受けた黒田清輝は1893年(明治26)に東京美術学校西洋画科に講師として赴任し、日本の洋画の確立に貢献するが、彼が重きを置いたのが「裸婦」であった。日本における裸体画の嚆矢は黒田が1895年(明治28)に第4回内国勧業博覧会に出品した『朝妝(ちょうしょう)』であり、同作品は裸体画が猥褻か芸術かという論争を引き起こ... -
蝶や小鳥の翼の色の中には、しばしば人間の企て及ばざるものがきらめいて居た故に、古くは其来去を以て別世界の消息の如くにも解して居た
1章3節346-6 柳田が蝶に触れるのは、蝶の呼び方に関する民俗語彙研究と、荘子の夢との関連である。鳥については、時鳥(ホトトギス)、郭公(カッコウ)、鳶や鳩の鳴き声(第1章第1節は「鶉の風雅なる声音」が言及される新色音論である)の解釈が口承文芸との関連で議論される。蝶と小鳥の両者の共通点には、羽、翼による往来があるが、「あの世を空の向ふに在るものと思つて居た時代から、人の魂が羽翼あるものゝ姿を借りて、屢々故郷の村に訪ひ寄るといふ信仰があつたものと思はれる」(『口承文芸史考』1947年、⑯506-14~16)、「人の心が此軀を見棄てゝ後まで、夢に現れ又屢々まぼろしに姿を示すのを、魂が異形に宿を移してなほ存在する為と推測した」(『野鳥雑記』1940年、⑫105-6... -
異常なる心理の激動
1章3節346-17 「童子から若者になる迄の期間(…)異常なる心理の激動」(346-16~17)とは、柳田が14歳のとき、布川のある祠の扉を開けたところ、青天に数十の星を見たという異常心理を来たしたが、鵯(ヒヨドリ)が啼いて正気に戻ったという逸話(『故郷七十年』1959年、㉑45)と関わっている。「体質の上に、如何なる痕跡を遺すものであつたか。はた又遺伝によつてどれだけの特徴を、種族の中に栽ゑ付けるものであるか」(346-17~18)は、1937年の「山立と山臥」の中で、修験道という異彩を放った信仰の歴史的発生を論じつつ、山伏の気質と習慣が日本人の気風に刻みつけた側面を探究すべきだと論じた(㉒484~485)ことと連なっている。「日本国民が古くから貯へて居た夢と幻との資...