注釈– category –
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所謂騒音
1章9節364-9 「騒音」という語が現れ、規制の対象となることは新しい問題であった。東京では、外国人の眼を意識した風俗の改良をめざし、1872年11月に違式詿違(いしきかいい)条例が出された。ここでは、立小便や裸体、肩脱ぎ、入墨が禁止されたが、1878年(明治11) 5月に「街上ニ於テ高聲ニ唱歌スル者但歌舞営業ノ者ハ此限ニアラズ」、「夜間十二時後歌舞音曲又ハ喧呶シテ他ノ安眠ヲ妨クル者」が追加された。末岡伸一によれば、これが最初の騒音規制とされる(「騒音規制の歴史的考察(明治期から第二次世界大戦)」、『東京都環境科学研究所年報』、2000年、207~214頁)。東京に範をとった違式註違条例が各地で制定されるなかで、騒音は規制の対象とされていったが、ここでの騒音... -
今沢市
1章2節343-8 明治初年に創作された浄瑠璃『壺坂霊験記』の主人公の座頭・沢市が、観音の霊験で開眼したストーリーを持つことから、今・沢市と呼ばれた。聞藏Ⅱで沢市を検索すると、「アメリカの沢市/突然目は開いたお里のお婆さんに驚く」(1928年3月19日)のみヒットする。[岩本] -
拘束
1章3節345-5 柳田は、『世相篇』のなかで、この「拘束」という語を多用している。この語は、制限、制約といった意味合いで用いられ(3章2節398-8、3章4節404-11など)、その状況下で生活することは「辛抱」(3章1節394-5)、「不便をさへ忍んで居る」(3章5節407-8)とされる。「拘束」の対義語には、「解放」(3章1節394-17)や「自在なる取捨選択」(2章6節385-17)が、容易に解消しがたい拘束には「調和手段」(3章1節394-6)や改良が配置されている。拘束の発生については、「人間の作り設けた」拘束(1章3節345-5)と、「天然」の拘束(1章3節345-5、10章2節532-10など)とに分けられるが、同時代人にとってはそれらがいずれも「前代生活の拘束」(3章1節394-2)、「伝統の拘束」... -
同じ流に浮ぶ者
1章1節341-6 世相の全容を知ることの困難を説くこの言葉は、柳田國男の学問の基本的な性格と連動している。世相を見定めることはなぜ困難で、また、なぜその方法がここで説かれる必要があったのだろうか。世相を知ることの困難は、観察者が対象のなかに一生活者としてあらかじめ埋め込まれていることに起因する。それは時として自明に過ぎ、対象として認識することが難しい。直後に鴨長明や吉田兼好などの「世捨人」の名があげられているが、柳田の説こうとするものは「世捨人」になることなく世相を把握するための方法であったと理解できる。ここでは「最近に過去の部に編入せられた今までの状態」との「比較」が、つかみ取りがたい世相を可視化する実験として提案されている。 言うま... -
日常+日常化
1章3節345-8、346-12、1章4節350-7+1章4節351-2 柳田國男が「珍事・奇談」ではなく(千葉徳爾「『日本民俗学の頽廃を悲しむ』について」『日本民俗学』194号、1993年、158頁)、「当たり前なもの」「ありふれたもの」に関心を向けていたことはいまや論を俟たないが、彼が「日常」という語をどのように使用していたかはなお検討されてよいだろう。『世相篇』の中では、日常という語は5ヵ所(第1章第3節に2ヵ所、第1章第4節に2ヵ所、第8章第1節に1ヵ所)出現する。例えば、第1章第4節では、花に対する「昂奮の如きもの」が消え、その楽しみが「日常凡庸のものと化した」という一文、そして、「微妙の天然を日常化し、平凡化して置いてくれたのは無意識であつたろうが」というかたちで「日... -
物遠い法則
1章1節341-8 「法則」とは、「世界史の基本法則」を高唱していた社会科学、とりわけマルクス主義を念頭に置いた言葉。柳田は、マルクス主義について、正面切って言及することはなかったが、たとえば「いやしくも歴史の知識を持つて居てから仕事に取掛らうといふならば、意外によつて教へられるだけの用意がなくてはならぬ。出来るだけ多量の精確なる事実から、帰納によつて当然の結論を得、且つこれを認むることそれが即ち科学である」(『郷土生活の研究法』1935年、⑧259-15~17)とあるように、演繹的な法則を仮定し、過去にそれを見出すような態度をきびしく排した。マルクス主義に依拠した諸研究が当時席捲していたこと、そしてそれらと『世相篇』における「新しい企て」(「自序」... -
花見
1章4節348-3 ここでいう花見は、躑躅(つつじ)や藤、山吹の咲き栄える頃とあって、桜に限っていない。中部以西では「三月三日、もしくはその何日かののちに、花見とも花ちらしとも言つて、必らず酒食をたずさえて」山遊びに行く風があり、九州一帯の海村での三月節供の日などの磯遊びや八重山のパナパナ(花々)と関連付けて、柳田は捉えている(「山歌のことなど」1932年『民謡覚書』、⑪58~61)。「青空の下に、酒を飲んで酔舞する」日本の花見は(「春を楽しむ術」1926年『豆の葉と太陽』、⑫254)、歌と男女の酒食が常に中心にあって、「歌が談話よりも自由な表白方法」(⑪64-3)だった「歌垣の名残」(⑪58-1)だと、彼は見なしている。中国地方や四国には4月8日(卯月八日・灌仏会... -
白といふ色
1章3節347-10 日本では「白は本来忌々しき色」で、神祭の衣か喪の服以外には身に著けずとあるように、清浄かつ神秘的な色とされた。「紺屋の白袴」と呼ぶ如く、褻着には白を用いなかったが、朝鮮半島では「白衣の民族」と自称したように、白は日常の衣服に着用されてきた。これに対して日本では、シロは葬儀の際の喪服や白装束などを指す言葉であり、その忌み言葉としてイロと呼ぶ地方も広かった(「イロ」『綜合日本民俗語彙』1巻、1955年)。[岩本] 台湾においても白は死を連想させる色であり、「白」字は葬儀に関する用語に見られる。喪服の色や形式は死者との親族関係により決定されるが、喪服の帽子を閩南語で「頭白」と総称する。また、葬儀の開催を知らせることを「報白」とい... -
四月始には、これを摘み取つて戸口に挿し、又は高い樟の尖端に飾つて、祭をするのが村々の習はし
1章4節348-4 ここで紹介されている四月始の習わしは、一般に「卯月八日」と呼ばれている年中行事であり、かつて広域に見受けられたものである。桜の花見が普及する以前の花見の機会、または山遊び・磯遊びの機会でもあった。とりわけ、高い棹の先端に摘み取った花を飾るものは天道花、八日花、夏花、立て花などともいう。民俗学の議論では、農事をはじめる時期にあたって、田の神の来臨を願う依り代として解釈する見方もある(浦西勉「卯月八日」『日本民俗大辞典』(上)吉川弘文館、1999年、171頁)。柳田もまた、『祭日考』ほかで、神の来臨との関連で天道花に言及している(1946年、⑯51)。[及川] →花見、盆花、門に祭をする、季節信仰 -
盆花
1章4節348-5 盆花とは、盆に際して精霊に供える花を指す。今日では生花店等で買い求められる場合が多いが、かつては特定の時期に、自ら山に入って採取するものであった。また、盆市または草市・花市と称する盆の供物を商う市で買い求める場合もあった。 盆花はキキョウ・オミナエシなどに限るという土地もあるが、秋の花ならば何でもよいという場合もあった。これを野山に摘みに行くことを「盆花摘み」という場合があるが、13日に行われる精霊迎えの前日、11日か12日ころが多いという。盆花を山から摘んでくる事例は、正月の門松を山から採取してくる松迎えと対応するという見方がある。『先祖の話』において「桔梗の紫の蕾、又は粟花の黄なる花の穂に、みたまの宿りを想像した時代もあ...