注釈– category –
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草鞋は通例足の蹠よりもずつと小さく
1章8節361-13 足半(あしなか)のことであろう。かかとにあたる部分のない短い藁草履(わらぞうり)。鼻緒を別にすげるのではなく、台部の芯縄の末端を表に出して鼻緒とし、前で横緒と結ぶ。軽くて走りやすく、武士などが好んで用い、農山漁村でも作業用に広く用いられた。「足半には礼儀なし」、「足半を履かせる」などの言い方がある。足半に対して、普通の長さのものを長草履という。アチックミューゼアム編『所謂足半(あしなか)に就いて』(『アチックミュージアム彙報』9、1936年)がある。[山口] →明治三十四年の六月に、東京では跣足を禁止した、柳田國男の足元、男女の風貌はこの六十年間に、二度も三度も目に立ってかはつた~、下駄屋 -
更に明治に入つてから突如として生産の量を加へた
1章8節363-6 「工場統計表」に下駄の生産量が載るようになるのは大正になってからであり、正確な生産量を提示することは難しい。ここでは、参考として、「工場統計表」により、草履・足袋・靴などの生産量とあわせて示した。[山口] 下駄の生産量の増加出典:『工場統計表』各年度(経済産業省ウェブサイト「工業アーカイブスにて閲覧」)より作成 →下駄屋 -
言論の如きは音声の最も複雑にして又微妙なるものである。是が今までさういふ形式を知らなかった人々を、実質以上の動かし得たのも已むを得なかつた
1章9節365-20~366-1 音声とあることから、言論とは主として演説のことであろう。『福沢全集緒言』(1897年)や『明治事物起源』(1908年)などから、明治初期に演説という形式が出現してきたことはよく知られており、柳田は、『国語の将来』(1934年⑩)をはじめ各所で演説に言及する。演説は、聞こえのよさを主眼とした付け焼刃で、型にはまった空疎なものであり、言葉の力はないに等しいとし、座談の名人である原敬に永遠の印象をとどめた演説のないことから、「日本語そのものが、未だ我々の内に輝き燃えるものを、精確に彩色し得るまでに発達して居ない結果ではあるまいか」と考えた(「国語の管理者」1927年、㉗208-3~5)。しかしこれは「余りにも頻繁なる刺激の連続によつて、こ... -
外国の旅人は日本に来て殊に耳につくのは、樫の足駄の歯の舗道にきしむ音だと謂つた
1章9節366-9~10 グラバー邸内のコールタール舗装(1863年)、銀座煉瓦街における煉瓦舗装(1873年)、神田昌平橋のアスファルト舗装(1878年)などはあったが、日本で舗道が普及しはじめるのは20世紀前半である。1919年制定の道路法に基づく内務省令第25号「街路構造令」に「主要なる街路の路面は(…)適当なる材料を以て之を舗装すへし」と規定され、同年制定の都市計画法により街路事業が進められたこと、1923年の関東大震災後の復興事業が国と東京市の双方で実施されたこと、自動車保有台数が増加したことなどが背景にある。コンクリート舗装とアスファルト系の簡易舗装とがあり、1930年には東京市の道路総面積440万坪の55%が舗道になった。すなわち、樫の足駄の舗道にきしむ音は... -
別に第二のそれよりも珍しく、また上品なるもの
1章2節344-19~20 「別に第二の、それよりも珍しく」と読点を加えて読めば、ここでいう「それ」を「禁色の制度」(344-17)の代名詞と捉えられ、この制度的拘束を超える技術、条件をもちつつも、それを具現化、通俗化しなかった理由として、「之を制抑して居た力」(345-2)であるところの第二の禁色、すなわち「天然の禁色」が潜んでいると想定されていることになる。[田村] →拘束、単に材料と色と形とが、自由に選り好みすることを許されているといふまでである、新旧雑処して残つて居たといふこと -
拘束
1章3節345-5 柳田は、『世相篇』のなかで、この「拘束」という語を多用している。この語は、制限、制約といった意味合いで用いられ(3章2節398-8、3章4節404-11など)、その状況下で生活することは「辛抱」(3章1節394-5)、「不便をさへ忍んで居る」(3章5節407-8)とされる。「拘束」の対義語には、「解放」(3章1節394-17)や「自在なる取捨選択」(2章6節385-17)が、容易に解消しがたい拘束には「調和手段」(3章1節394-6)や改良が配置されている。拘束の発生については、「人間の作り設けた」拘束(1章3節345-5)と、「天然」の拘束(1章3節345-5、10章2節532-10など)とに分けられるが、同時代人にとってはそれらがいずれも「前代生活の拘束」(3章1節394-2)、「伝統の拘束」... -
蝶や小鳥の翼の色の中には、しばしば人間の企て及ばざるものがきらめいて居た故に、古くは其来去を以て別世界の消息の如くにも解して居た
1章3節346-6 柳田が蝶に触れるのは、蝶の呼び方に関する民俗語彙研究と、荘子の夢との関連である。鳥については、時鳥(ホトトギス)、郭公(カッコウ)、鳶や鳩の鳴き声(第1章第1節は「鶉の風雅なる声音」が言及される新色音論である)の解釈が口承文芸との関連で議論される。蝶と小鳥の両者の共通点には、羽、翼による往来があるが、「あの世を空の向ふに在るものと思つて居た時代から、人の魂が羽翼あるものゝ姿を借りて、屢々故郷の村に訪ひ寄るといふ信仰があつたものと思はれる」(『口承文芸史考』1947年、⑯506-14~16)、「人の心が此軀を見棄てゝ後まで、夢に現れ又屢々まぼろしに姿を示すのを、魂が異形に宿を移してなほ存在する為と推測した」(『野鳥雑記』1940年、⑫105-6... -
渋さの極致
1章5節351-14 すでに第3節に「渋いといふ味わひ」(347-16~17)が、また第4節には「陰鬱なる鈍色」(351-3)が出てくるが、鈍色(にぶ色)とはにび色ともいい、濃いねずみ色のことで、喪服などに用いられる。定本や講談社学術文庫版では、にびいろとルビが振られてある。渋さとは、柿渋や茶渋に対する味覚の表現から、渋い顔のような苦り切った表情に対してだけでなく、渋い演技のような、派手でなく落ち着いた趣があって、地味で深い味わいを指す場合にも用いられる点が、日本ならではの価値観・美意識だともいえる。具体的には、第3節の「樹蔭のやうなくすみを掛け、縞や模様までも出来るだけ小さくして居た」(345-16~17)が、これに相当する。この価値観・美意識が日本的なのは、... -
新たなる仕事着+制服
1章7節357-16+1章7節358-3 明治政府は、後述の「服装改革の詔」にあるように服制を「風俗」「国体」の問題として捉え、新たな服制を制定するにあたって、『大宝律令』(701年)以来の「制服」という古語を復活させる一方で、公家様式でも武士様式でもない、「洋服」を「新たな仕事着」(357-16)すなわち、制服として採用した。これは、幕末には、「異風」として町民らに禁止された服装であったが、何をもって「国風」(1章6節354-7)とみなすかは、時期文脈において大きく変化しており、柳田は変化の前段階を安易に「国風」、伝統として論じる見解を排する。北方史研究の浪川健治の指摘するように、江戸時代においても、「江戸言葉風俗」に対して「御国之言葉風儀」が対置されて後者... -
殿中足袋御免
1章8節362-5 中国より伝来した履物は、襪(しとうず)と舃(せきのくつ)の組み合わせとして、養老衣服令(えぶくりょう)の礼服と朝服とにも取り入れられている。しかし、襪はひもで結ぶ足を包む袋というべきものであり、指の部位は分かれていない。 他方、皮製の、足を包む履物も存在し、武家の間に普及した。武家においては、礼装では素足が正装とされ、防寒具としての足袋は、病気や高齢を理由に冬季のみ「殿中足袋御免」を願い出て、許可を得た場合にのみ特例として着用することができた。 『日本服飾史』によれば、寛永年間の頃から木綿足袋が現われた(谷田閲二、小池三枝、光生館、1989年)。社会に広く普及するなかで、筒の短い半靴が生まれ、色には流行があったが、男性は紺...