注釈– category –
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我々は必ずしも輸入超過を苦しんで居ない。たゞ時々は過度の謙遜を以て、日本もまた他の太平洋の島々の如く、始終欧米服飾の趣味流行に、引き廻されて居るものゝ如く考へることを、弱点とするばかりである
1章6節357-1~3 節のタイトル「流行に対する誤解」からすると、ここでは、国風(伝統)vs流行のような二分法的な理解に陥ってしまって、欧米の流行にのみ引き回されているように考えることを、弱点なのだと柳田は述べたいのだろう。島の経済が外部資本に翻弄され蹂躙されやすいことは、南太平洋の島々の経済をはじめ、沖縄のソテツ地獄(明治末期から昭和初期にかけて南西諸島で発生した経済恐慌)に顕われており、柳田は同じ島国である日本の経済も世界経済に引き回されてはならないと主張する(「南島研究の現状」1925年「島の話」1926年『青年と学問』④、「地方文化建設の序説」1925年㉖)。当時の昭和恐慌(農業恐慌)の原因を、大戦景気から一転、戦後恐慌(反動恐慌)に突入して... -
腰巻
1章7節359-10 腰巻は、女性が和装するときに下着として腰から脚にかけて、じかに肌にまとう布を指す。腰巻は肌着のほか、古くから婦人の労働着の役目をもっていた。おもに畑作業の際に下半身に腰巻を短く着用し、上半身には膝下までの長さの野良着を着て、足には脚絆をつけるのが一般的であった。農村では腰巻をつけることが一人前になった証であり、女子は13歳になると〈ヘコ祝い〉〈腰巻祝い〉〈湯文字祝い〉などといって,母親の実家や親戚から贈られた赤または白の木綿の腰巻を初めて着用する習わしが各地で見られた(「腰巻」『改訂新版 世界大百科事典』平凡社、2014年)。[加藤] →洗濯、所謂洋服も亦とくに日本化して居る、婦人洋服の最近の普及、袖無し、手無し、露出の美を... -
音は欠くべからざる社会知識
1章9節365-4 生活のなかの音を、私たちが共有している知識ととらえ、音が、生活のありようと歴史を知るよりどころの一つとなることを説く斬新な発想を提示している。 1980年代以降に議論されはじめた、中世における鐘の音の社会的意味を問うた社会史(たとえば、アラン・コルバン『音の風景』藤原書店、小倉孝誠訳、1997年、笹本正治『中世の鐘・近世の鐘―鐘の音の結ぶ世界』名著出版、1990年、パウル・サルトーリ『鐘の本―ヨーロッパの音と祈りの民俗誌』八坂書房、吉田孝夫訳、2019年などや、または風景(ランドスケープ)と同様に、テクストとして街の音を読むことができるという考えかたに基づく「サウンドスケープ」論(たとえば鳥越けい子『サウンドスケープ―その思想と実践』鹿... -
新らしい洋服主唱者にもし不親切な点があるとすれば、強ひてこの久しい行掛りと絶縁して、自分等ばかりで西洋を学び得たと、思つて居ることがやゝそれに近い
1章7節359-16~17 近代における洋装の提唱は合理性の追求と和装への批判と連動していたが、生活への洞察を欠き、庶民にまでは普及しなかった。これらを上流中流の人びとによる素朴な西洋主義として批判するのがここでの柳田の発言である。 そもそも、女性の洋装は鹿鳴館時代に上層階級の婦人の衣装として出現し、洋裁教育も興隆していくが、この時期、洋服で外出するのは中流以上の家庭の女性であった。この時期から、和服の不合理性が指摘され、衣服改良運動が女性誌上で展開され、改良服の考案が進められる。ただし、これらは庶民にまでは浸透しなかった。大正期の生活改善運動においても和服の不合理性が指摘され、服装改善運動が展開される。大正期には職業婦人の増加に伴い、洋服... -
男女の風貌はこの六十年間に、二度も三度も目に立つてかはつた。~男の方でも男らしさの標準といふものが、誰定むるところとも無く別なものになつた。~肩を一方だけ尖らせて跨いであるくやうな歩き方もあつた。袖を入れちがひに組んで小走りにする摺足もあつた。気を付けて見ると、何れも履物の影響が大きかつたやうである
1章8節362-19~363-2 柳田は①男女の風貌と、②男らしさと、③歩き方と、④履物とが、それぞれ連動して変化していったかのように示唆するが、その筆致は必ずしも整合的ではない。履物に関しては、基本的に、跣足→足半・草履→下駄→地下足袋→ゴム長靴といった「型式学的層序」があったと捉えていることに間違いないが、論点を少しずつ移行させながら、全体を俯瞰しているとみた方がよいだろう(前注したように、地下足袋とゴム長靴は、実際にはほぼ並行的に流行したように、跣足と草鞋には同時代における階層差もあった。「型式学的層序」とは地方差も含めた型式学的な順番のことであり、一系的な変遷を指すものではない)。 「袖を入れちがいに組んで小走りにする摺り足」は草履が、これに対... -
著聞集には小馬を足駄だと謂った人の話があるが、駄といふからには何か基づく所はあつたのである
1章8節363-3 『古今著聞集』は中世の説話集。橘成季著。20巻。1254年(建長6)成立。「巻第20 魚虫禽獣」の719話「阿波国智願上人の乳母の尼、死後化生して馬となり、上人に奉仕の事」に以下のような一文がある。「阿波の国に智願上人とて国中に帰依する上人あり。めのとなりける尼死に侍りて後、上人のもとに、おもはざるに駄を一疋まうけたりけり」。おそらく柳田が指している話はこれであろう。この他に足駄が登場する話として、「近江国の遊女金が大力の事」(巻第15 相撲強力 381話)、「順徳院の御時、恪勤者其傍輩と賭け、内裏の番替りに高足駄にて油小路を通行の事」(巻第16 興言利口 538話)がある。[加藤] →下駄屋 -
男ばかりが護謨の長靴などを穿いて、女はどうでもせよと棄てゝ置くらしいのは悪いと思ふ
第1章7節360-5~7 ゴム長靴が高価な購入品であって、一家全員が利用するまでには至っていないことを表現するとともに、先に女性の機能的な仕事着が長い間考案されずに来たことを批判したのと同様に、足元も女性の履物が考案されずにいることを、暗に批判していた文章である。柳田は家庭内における不平等を、近代に至ってむしろ家父長権の強まりによってもたらされたものだと考えており、1936年の「女性史学」(『木綿以前の事』所収)では「婦人参政権の問題は(…)やがて又起るにきまつて居る。今日の婦人は(…)果して国の政治に参画して、女で無くては出来ぬ様な社会奉仕を、為し得るだけに支度せられて居るかどうか」と論じている(⑨602)。第8章「恋愛技術の消長」や、第13章「伴... -
靴は其の本国では脱ぐ場所が大よそ定まつて居る~我々の家では玄関の正面で、是と別れるやうな構造が出来て居る
1章7節360-8~10 ドイツやデンマーク・北欧などでは家の入口で靴を脱ぐのが一般化しつつあるが、欧米では基本的に寝室のクローゼットかベッドまで靴は脱がない。ただし、その状況は刻々と変化しており、日本では玄関口や上がり框で履物を100%脱ぐのに対し、欧米では靴を100%は脱がないわけではないといったところだろうか。だが、家の入口で脱ぐからといってドイツなどの家に、構造上、日本の玄関のような設えがあるわけではない。家のドアは単なるエントランスに過ぎず、日本のように段差があるわけでもなく、装飾は至ってシンプルである。その出入り口に土間はなく、マットレスが敷かれる程度である。一方、欧米や中国・韓国の邸宅では、塀で敷地が囲われて、ゲートもあって、家屋... -
下駄屋
1章8節363-5 遠藤武によると、1828年に刊行された『江戸買物独案内』には、草履屋や雪踏屋はあるものの、下駄屋の記載はなく、当時は、下駄は草履屋で売られ下駄専門店はなかったという。そして、幕末に至るまで都会では、主に草履が使われていたとしている(渋沢『生活編』65頁)。 西日本の下駄の一大産地の一つであった広島で下駄が生産されはじめたのは、18世紀末のことであり、19世紀初頭以降は、広島藩の産物統制政策により、広島城下の48軒の株組織にのみ小売りが制限されていた。広島の下駄が、京都から九州まで西日本一円に販路を拡大したのは、明治期以降に小売りが自由になってからであったという。特に明治の中頃から、松永(現福山市)で、油桐、針桐などの雑木を使って下... -
更に明治に入つてから突如として生産の量を加へた
1章8節363-6 「工場統計表」に下駄の生産量が載るようになるのは大正になってからであり、正確な生産量を提示することは難しい。ここでは、参考として、「工場統計表」により、草履・足袋・靴などの生産量とあわせて示した。[山口] 下駄の生産量の増加出典:『工場統計表』各年度(経済産業省ウェブサイト「工業アーカイブスにて閲覧」)より作成 →下駄屋