注釈– category –
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手甲、脛巾
1章7節359-8 手甲(てっこう)は、屋外での労働のとき、外傷、日差し、寒気を避けるために使われ、旅行、行商にも用いられた。形態は平型と筒型とがあり、平型は甲の部分が「やま」といわれる三角形か半円形となっており、その先についている紐に中指を通して手首に巻き、紐かこはぜで留める。材料は紺木綿が多いが、狩猟者は毛皮製のものを用いた(「手甲」『日本大百科全書』小学館、1994年)。 これに対し脛巾(はばき)は、膝下のはぎにつけ足を保護するもので、布、藁など様々な材料によって作られる。室町時代に脚絆(きゃはん)という語が現れ、こちらの名称が一般化するが、脚絆は布製のもので、脛巾は稲わらなどで作られたものとして区別する場合もある(宮本馨太郎「脚半」『... -
一種の中間性+モスリン
1章6節355-15 モスリンは、18世紀から19世紀にかけてヨーロッパで大流行した平織の綿染織物だったが、19世紀後半になると羊毛を使ったモスリンがつくられ、それが明治初期の日本に輸入されることになった。したがって日本でいうモスリンは、綿織物ではなくもっぱら毛織物を意味していた。そしてもともと洋装の素材だったモスリンは、それ以後日本では日常着用の和装の素材として普及することになった。 近代以降の日本におけるモスリンの普及について、先川直子(先川「近代日本におけるモスリン」(『目白大学短期大学部 研究紀要』47号、2011年)によりみていく。輸入されるモスリンの染の柄は日本の和装に合わず、型友禅の技術を使って染色を行うようになり、生地を輸入してローラ... -
流行
1章6節356-1 本書の導入部である「新色音論」は、近世の椿と鶉(うずら)の流行に触れているが、流行の位置づけと、それにどのような態度で臨むかという問題は、『世相篇』に貫徹したテーマである。 本節のタイトルは、「流行に対する誤解」だが、この誤解とは、近代の日本における衣生活の変化が、「始終欧米服飾の趣味流行に、引き廻されて居るものの如く考へること」(357-2)を指す。例えばモスリンの普及に言及した箇所では、「最初は模倣であったが、即座に我々は之を日本向きと化し、後には又他で見られない特産として認めさせた」(355-16)と述べ、その過程で形成された「過去数十年の唐縮緬文化」が、「毛糸の利用普及」、「厚地毛織物の生産増加」、そして「染色技術の進歩... -
所謂生活改良家
1章6節356-9 「問題はただその次々の実験の途中、やたらに理想形だの完成だのといふ宣伝語を、真に受けることがよいか悪いかで、所謂生活改良家は少しばかりその説法がそゝつかしかつた様に思はれる」(356-8~9)とは、第15章の章題が「生活改善の目標」であるように、1920年1月に文部省内に半官半民の団体として設立された生活改善同盟会の活動や、それを中心に拡がった生活改善運動を、暗に批判している。第8節の「生活を改良する望み」(363-30)であるとか、第7節の「新しい洋服主義者にもし不親切な点があるとすれば、強ひてこの久しい行き掛りと絶縁して、自分等ばかりで西洋を学び得たと、思つて居ることがやゝそれに近い」(359-16~17)も、同様の見方であり、生活改善運動に... -
和田三造画伯の色彩標本は五百ださうだ
1章6節356-18 和田三造(1883-1967)は、明治・大正・昭和期に活躍した洋画家、版画家。色彩研究にも傾注し、1927年(昭和2)に日本標準色協会を創設、主宰し、『日本標準色カード』(日本標準色協会、1929年)や『色名總鑑』(春秋社、1931年)などを著した。その「標準色協会の仕事」(『日本色彩学雑誌』17巻2号、1993年に復刻、原文は1944年頃か)という文章に、今から17年前に日本標準色協会を設置し、「最も実用的と思はれる日本人的?な色彩五〇〇種を選定した」とし、「日本標準色カード500」を世に問うたのは、1929年(昭和4)のことだったと記されてある。[岩本] →色の種類に貧しい国 -
殿中足袋御免
1章8節362-5 中国より伝来した履物は、襪(しとうず)と舃(せきのくつ)の組み合わせとして、養老衣服令(えぶくりょう)の礼服と朝服とにも取り入れられている。しかし、襪はひもで結ぶ足を包む袋というべきものであり、指の部位は分かれていない。 他方、皮製の、足を包む履物も存在し、武家の間に普及した。武家においては、礼装では素足が正装とされ、防寒具としての足袋は、病気や高齢を理由に冬季のみ「殿中足袋御免」を願い出て、許可を得た場合にのみ特例として着用することができた。 『日本服飾史』によれば、寛永年間の頃から木綿足袋が現われた(谷田閲二、小池三枝、光生館、1989年)。社会に広く普及するなかで、筒の短い半靴が生まれ、色には流行があったが、男性は紺... -
出井盛之君の「足袋の話」
1章8節362-9 早稲田大学教授であった出井盛之(いでい せいし1892-1975)の著作『足袋の話―足袋から観た経済生活』(多鼻会、1925年)のこと。全48頁の小冊子であるが、現地の生産現場などの観察から問いを発する「行動経済学」を主唱した出井の、『行動経済学の立場より』(巌松堂、1923年)は当時、有名で、この書も『勤労者講座―足袋の話』(勤労者教育中央會、1926年)として版を重ねていた。わざわざ固有名詞をあげ、これに言及するのは、柳田の考える経済学に捉え方が近かったためか。[岩本] →足袋 -
大正終りの護謨長時代+跣足足袋、地下足袋
1章8節361-17~18+362-13 日本が初めてゴム長靴(以下、ゴム長)をアメリカから輸入したのが1905年(明治38)だったとされるが(高田公理「長靴」『大百科事典』。図1参照。それ以前にもゴム塗靴と呼ばれる半長靴も存在した。図2参照)、佐藤栄孝編『靴産業百年史』(日本靴連盟、1971年、173頁、以下、『百年史』と略)でも、「防寒耐水性に富むゴム靴の長所が認められ、急に需要がふえてきたのは日露戦争以降のこと」だったとされている。1907年には国産も始まり、間もなくゴム靴を海外に輸出するに至るほど、ゴム産業は急発展を示してゆくが、特に1919年(大正8)頃から、神戸を中心に本格的なゴム靴工業が展開する(渋沢『生活編』、69頁。日本工学会編『明治工業史9化学工業編』1... -
我邦の水田はどしどし排水して行くが、是から出て行く先には沼沢が多い。足を沾らして働くやうな土地だけが、僅に日本人の植民には残されて居るのである
1章8節362-17~18 本書が刊行された1931年(昭和6)時点で日本からの植民が行われていた地域は、台湾、樺太、関東州、朝鮮、南洋群島であり、当時は「外地」と呼ばれていた。また満洲においても非組織的で散発的であったが移民が模索されていた。ここでいわれている「沼沢の多い地域」として考えられるのは南洋諸島、あるいは未開拓の湿地帯が多かった満洲である。もともとドイツ領であった南洋諸島は、第一次世界大戦後、ヴェルサイユ講和条約(1919年)によってその経営権が放棄され、国際連盟に指名された国がこれを統治することになった。これに伴い赤道以北の島々は日本の委任統治領となるが、1921年(大正10)2月、沖縄の旅からの帰途にあった柳田は久留米で外務省からの電報を受... -
香道が疲るゝ嗅覚の慰藉であつたやうに
1章9節364-13~14 柳田の議論は生活をめぐる五感の問題として相互に連動している。ここでの香道への言及も、つよい刺激を好む風潮が、各種の生活と結びついた感覚を鈍らせていくという見方のもとにおかれている。それらの刺激は、雑多な刺激の増加によって疲労した感覚を、統一することで癒そうとするものでもあった。香道の場合、「珍しくかつ力強く人の心を動か」す音の増加に疲れた聴覚が音楽を求めることと併置されており、疲れた嗅覚を癒すため、雑多なものの一切を「超脱する」ために求められた手段として位置づけられている。柳田はこれを「人の平日の」感覚を「遅鈍にする」ものと位置付ける。同様の見方は第2章の「村の香、祭りの香」における「たばこ」への言及にもみられる...