注釈– category –
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草鞋は通例足の蹠よりもずつと小さく
1章8節361-13 足半(あしなか)のことであろう。かかとにあたる部分のない短い藁草履(わらぞうり)。鼻緒を別にすげるのではなく、台部の芯縄の末端を表に出して鼻緒とし、前で横緒と結ぶ。軽くて走りやすく、武士などが好んで用い、農山漁村でも作業用に広く用いられた。「足半には礼儀なし」、「足半を履かせる」などの言い方がある。足半に対して、普通の長さのものを長草履という。アチックミューゼアム編『所謂足半(あしなか)に就いて』(『アチックミュージアム彙報』9、1936年)がある。[山口] →明治三十四年の六月に、東京では跣足を禁止した、柳田國男の足元、男女の風貌はこの六十年間に、二度も三度も目に立ってかはつた~、下駄屋 -
綿フランネル
1章6節355-7 フランネルとは毛織物のこと。ネルと略した。綿フランネルとは、フランネルに似せて綿糸で織った綿織物のこと。綿ネルとも言う。1870年、畠山義信(1841-1894)が、和歌山藩の兵士の被服・肌着用に、起毛した綿織物を試作したのがはじまりとされる。毛織物は当初ほとんど輸入するほかなかったが、綿フランネルは国内生産が可能だったこともあり、軍隊の制服などに採用され、需要の高まりとともに縞なども織られるようになった。日清戦後には中国や朝鮮にも盛んに輸出された。代表的な産地は和歌山県であり、紀州ネルと呼ばれる。こうした来歴のほか、創始者とされる畠山義信にはそのことで1898年に銀杯が下賜される一方で、たとえば文盛堂編集所『世界発明譚-科学の進歩』... -
足袋
1章8節362-2 柳田は『雪國の春』収録の「豆手帖から」で、足袋の普及は木綿の普及後の出来事であるとしながら、その前身の革足袋について、「僅かに人間の足の皮の補助をするといふまでで、汚さもきたなく、心を喜ばしむべきものでは無かつた」とし、「五尺三尺の木綿が始めて百姓の手にも入り、足袋にでもして穿かうと云ふ際には、やはり今日の絹キャリコに対するやうな、勿体なさと思ひ切りを、根が質朴な人々だけに、必ず感じ且つ楽んだことゝ思ふ」と述べている(③708-17~709-1)。 平安期の『倭名鈔』にみえる多鼻ないし単皮は動物の一枚皮で作成した半靴(筒のない靴)であった。鎌倉期以降の武士は皮をなめした革足袋をもちいたが、獣毛のついたままの毛足袋もマタギなどに使用... -
大正四年の染料医薬品製造奨励法
1章6節355-12 1915年法律第19号「染料医薬品製造奨励法」は全9条と附則からなる。同法における染料とは、「『アニリンソルト』、『アニリン』染料、『アリザリン』染料及人造藍」のこと。アニリンはアミノベンゼンとも言われ、特有の臭気を持つ無色油状の液体。それを塩酸と反応させて得られるのがアニリンソルト(アニリン塩酸塩)。いわゆるアニリン染料の原料であり、20世紀初頭には合成染料の代表格であった。アリザリンと人造藍(インジゴ)は、それより後発の合成染料。同法は、これらを製造する国内の株式会社に対し、補助金を交付することを定めている。「世界大戦時代の貿易杜絶によつて」(355-11)とあるように、第1次世界大戦の勃発により、それまでほとんどドイツからの輸... -
柳田國男の足元
1章8節 柳田國男の足元に注目してみよう。柳田は夏場は裸足にスリッパ、または下駄を履いている。春から秋にかけての写真をみると、足袋にスリッパ、草履、下駄という組み合わせである。なお、夏場の写真はいずれも戦前のものであり、春から秋の写真はいずれも戦後の写真である。[及川] →明治三十四年の六月に、東京では跣足を禁止した、草鞋は通例足の蹠よりもずつと小さく、足袋、素足 はだしにスリッパ(昭和2年頃、自宅。「清水浪子ことシュバルツマン女史と。右端は野澤虎雄」)所蔵:成城大学民俗研究所 はだしに下駄(昭和8年7月。自宅庭)所蔵:成城大学民俗研究所 白足袋に下駄?(昭和27年6月、自宅庭)所蔵:成城大学民俗研究所 厚手の白足袋(昭和29年、「芝白金八芳園に... -
所謂騒音
1章9節364-9 「騒音」という語が現れ、規制の対象となることは新しい問題であった。東京では、外国人の眼を意識した風俗の改良をめざし、1872年11月に違式詿違(いしきかいい)条例が出された。ここでは、立小便や裸体、肩脱ぎ、入墨が禁止されたが、1878年(明治11) 5月に「街上ニ於テ高聲ニ唱歌スル者但歌舞営業ノ者ハ此限ニアラズ」、「夜間十二時後歌舞音曲又ハ喧呶シテ他ノ安眠ヲ妨クル者」が追加された。末岡伸一によれば、これが最初の騒音規制とされる(「騒音規制の歴史的考察(明治期から第二次世界大戦)」、『東京都環境科学研究所年報』、2000年、207~214頁)。東京に範をとった違式註違条例が各地で制定されるなかで、騒音は規制の対象とされていったが、ここでの騒音... -
香道
1章9節364-13 沈水香木を熱し、その香を鑑賞する芸道であり、香を「聞く」と表現する。主に、香木の香を鑑賞する聞香(もんこう)と、香を聞き分ける組香(くみこう)に別れる。595年(推古天皇3年)に香木が漂着し、朝廷に献上されたという記録が『日本書紀』にあるが、香を焚く文化は仏教の伝来とともに供香として日本に出現し、やがて宮中や貴族の生活に取り入れられていく。平安期の貴族社会では薫物(たきもの)を調合し、楽しむ風が生まれる。平安期の薫物が香料を調合し練り合せたものを焚くのに対し、室町期以降に武士の文化として隆盛した香木をそのまま加熱する手法が、今日の香道につながっていく。鎌倉期に、舶来品である香木の入手が困難になり、使用の制限が加えられる中... -
モンペ、モッピキ
1章7節359-6 モンペは袴の一種で、近代に入ると標準語として広く用いられたが、それほど古い言葉ではないと考えられる。言葉の起りはモモヒキと同じと推測されており、福島県、山形県を中心として、全国に見られる(「モンペ」『綜合日本民俗語彙』4巻、平凡社、1956年)。純粋な仕事着ではなかったが、労働に便利な改良が行われ、戦時中に女性の非常時服として採用され普及した。[加藤] →理由があつて中央の平坦部などには、その仕事着が早く廃れてしまつた、新らしい洋服主唱者にもし不親切な点があるとすれば~ 「鹽原山民之風俗」と題する記事の挿絵。出典:『国民新聞』1897年(明治30) 11月25日号 -
素足
1章8節362-2~3 素足と跣・裸足の違いは、履き物や靴下などを履かない足の状態に重きを置いた言い方が素足である。土足で上がってはならない場所では素足が、土足の場所では跣・裸足が使われる。砂浜を走るのは跣・裸足であって、素足ではない。はだしは、肌足(はだあし)の変化した語とされ、履物をはかないで地面を歩くことを、徒跣(かちはだし)とも呼んだ。[岩本] →靴は其の本国では脱ぐ場所が大よそ定まつて居る~、明治三十四年の六月に、東京では跣足を禁止した、柳田國男の足元、殿中足袋御免、下駄屋 -
袖無し、手無し
1章7節359-6~7 古くは肩衣とも呼ばれ、庶民の衣服だったが、その後、武士の間で陣羽織となり、庶民の間では甚兵衛羽織となった。いわゆる「ちゃんちゃんこ」である。柳田が「東部の町ではもう小児か年寄りにしか着せて居ない」(359-7)と述べているように、東京では子供や老人がこれをよく着ていたが、地域によっては若い男や女性がこれを着る例もある。秋田県鹿角郡などでは、これをハッピといった(「ソデナシ」『綜合日本民俗語彙』2巻、平凡社、1955年)。[加藤] →婦人洋服の最近の普及、腰巻 祝い着として紹介されている袖無し。出典:『実用裁縫秘訣』(東京和服裁縫研究会編) 1920年(大正10)