岩本通弥– 執筆者 –
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洗濯
1章5節353-4 同じ行にある「糊」「打ち平めて」を含め、かつての洗濯の手順を振り返っておく。和服の洗濯には、丸洗いや部分洗いのほかに「洗い張り」があった。縫い合わせた衣服の状態から、糸を抜き、布の形状に解き離し、「端縫い(はぬい)」をして反物に戻して、洗浄する「解き洗い(ときあらい)」ののち、皺を伸ばし艶を出す「張り」の作業を経て、洗濯糊(ふのり)を付けて、仕上げとなった。洗い張りとは、基本的にここまでの作業工程を指し、反物の形状を、元の着物や別な着物に「仕立て直し」するのは、別な工程だった。 自分で直すこともできるが、前者の工程を行う洗張り屋と、後者の仕立て屋に、職人は分かれた。褪せた色の「染め返し」や「染め替え」をする場合もあり、... -
理由があつて中央の平坦部などには、その仕事着が早く廃れてしまつた
1章7節358-14~15 仕事着(野良着・労働着)の形態は、表1のように、(1)上半身・下半身につける衣服が分かれていない一部構成ワンピース式のものと、(2)上半身につける上衣と下衣が分かれる二部構成のものに大別され、後者はさらに①腰巻型②股引型③山袴型の三つに分けられた。「理由あつて中央の平坦部など」において仕事着が廃れたとは、大都市の衣生活の波及によって、裾を端折って襷がけをする普段着の転用が起きたという意味だろう。東北地方や山間部では山袴型が分布していたことから、当時、柳田の脳裏には周圏論的な型式学的広がりが想定されていたように思われる。第1次世界大戦後の1920年に文部省の半官半民の団体として設置された生活改善同盟会が、1931年に編纂した『農... -
縮み
1章5節353-5 苧麻(ちょま)で織った縮織りのことで、明石産や小千谷産が有名。横糸に強い撚りをかけた右撚り(右回りに捻る)と左撚り(左回りに捻る)の糸を交互に織ったもので、温湯の中で揉んで処理すると、布が縮み生地の表面にシボと呼ばれる凹凸が現われる。越後麻布に改良を加えて完成した小千谷縮は、シボのある独特の風合いで高い評価を得て、魚沼地方を産地とする越後上布とともに1955年に国の重要無形文化財に指定され、2009年にはユネスコの無形文化遺産にも代表一覧に記載された(平織のものを越後上布、縮織を小千谷縮と呼ぶ)。絹の縮織りしたものが縮緬(ちりめん)で、丹後縮緬、浜縮緬(滋賀長浜)が有名。なお、第6節の「流行に対する誤解」に出てくる「唐縮緬」(... -
素足
1章8節362-2~3 素足と跣・裸足の違いは、履き物や靴下などを履かない足の状態に重きを置いた言い方が素足である。土足で上がってはならない場所では素足が、土足の場所では跣・裸足が使われる。砂浜を走るのは跣・裸足であって、素足ではない。はだしは、肌足(はだあし)の変化した語とされ、履物をはかないで地面を歩くことを、徒跣(かちはだし)とも呼んだ。[岩本] →靴は其の本国では脱ぐ場所が大よそ定まつて居る~、明治三十四年の六月に、東京では跣足を禁止した、柳田國男の足元、殿中足袋御免、下駄屋 -
所謂生活改良家
1章6節356-9 「問題はただその次々の実験の途中、やたらに理想形だの完成だのといふ宣伝語を、真に受けることがよいか悪いかで、所謂生活改良家は少しばかりその説法がそゝつかしかつた様に思はれる」(356-8~9)とは、第15章の章題が「生活改善の目標」であるように、1920年1月に文部省内に半官半民の団体として設立された生活改善同盟会の活動や、それを中心に拡がった生活改善運動を、暗に批判している。第8節の「生活を改良する望み」(363-30)であるとか、第7節の「新しい洋服主義者にもし不親切な点があるとすれば、強ひてこの久しい行き掛りと絶縁して、自分等ばかりで西洋を学び得たと、思つて居ることがやゝそれに近い」(359-16~17)も、同様の見方であり、生活改善運動に... -
和田三造画伯の色彩標本は五百ださうだ
1章6節356-18 和田三造(1883-1967)は、明治・大正・昭和期に活躍した洋画家、版画家。色彩研究にも傾注し、1927年(昭和2)に日本標準色協会を創設、主宰し、『日本標準色カード』(日本標準色協会、1929年)や『色名總鑑』(春秋社、1931年)などを著した。その「標準色協会の仕事」(『日本色彩学雑誌』17巻2号、1993年に復刻、原文は1944年頃か)という文章に、今から17年前に日本標準色協会を設置し、「最も実用的と思はれる日本人的?な色彩五〇〇種を選定した」とし、「日本標準色カード500」を世に問うたのは、1929年(昭和4)のことだったと記されてある。[岩本] →色の種類に貧しい国 -
出井盛之君の「足袋の話」
1章8節362-9 早稲田大学教授であった出井盛之(いでい せいし1892-1975)の著作『足袋の話―足袋から観た経済生活』(多鼻会、1925年)のこと。全48頁の小冊子であるが、現地の生産現場などの観察から問いを発する「行動経済学」を主唱した出井の、『行動経済学の立場より』(巌松堂、1923年)は当時、有名で、この書も『勤労者講座―足袋の話』(勤労者教育中央會、1926年)として版を重ねていた。わざわざ固有名詞をあげ、これに言及するのは、柳田の考える経済学に捉え方が近かったためか。[岩本] →足袋 -
大正終りの護謨長時代+跣足足袋、地下足袋
1章8節361-17~18+362-13 日本が初めてゴム長靴(以下、ゴム長)をアメリカから輸入したのが1905年(明治38)だったとされるが(高田公理「長靴」『大百科事典』。図1参照。それ以前にもゴム塗靴と呼ばれる半長靴も存在した。図2参照)、佐藤栄孝編『靴産業百年史』(日本靴連盟、1971年、173頁、以下、『百年史』と略)でも、「防寒耐水性に富むゴム靴の長所が認められ、急に需要がふえてきたのは日露戦争以降のこと」だったとされている。1907年には国産も始まり、間もなくゴム靴を海外に輸出するに至るほど、ゴム産業は急発展を示してゆくが、特に1919年(大正8)頃から、神戸を中心に本格的なゴム靴工業が展開する(渋沢『生活編』、69頁。日本工学会編『明治工業史9化学工業編』1... -
我々は必ずしも輸入超過を苦しんで居ない。たゞ時々は過度の謙遜を以て、日本もまた他の太平洋の島々の如く、始終欧米服飾の趣味流行に、引き廻されて居るものゝ如く考へることを、弱点とするばかりである
1章6節357-1~3 節のタイトル「流行に対する誤解」からすると、ここでは、国風(伝統)vs流行のような二分法的な理解に陥ってしまって、欧米の流行にのみ引き回されているように考えることを、弱点なのだと柳田は述べたいのだろう。島の経済が外部資本に翻弄され蹂躙されやすいことは、南太平洋の島々の経済をはじめ、沖縄のソテツ地獄(明治末期から昭和初期にかけて南西諸島で発生した経済恐慌)に顕われており、柳田は同じ島国である日本の経済も世界経済に引き回されてはならないと主張する(「南島研究の現状」1925年「島の話」1926年『青年と学問』④、「地方文化建設の序説」1925年㉖)。当時の昭和恐慌(農業恐慌)の原因を、大戦景気から一転、戦後恐慌(反動恐慌)に突入して... -
男女の風貌はこの六十年間に、二度も三度も目に立つてかはつた。~男の方でも男らしさの標準といふものが、誰定むるところとも無く別なものになつた。~肩を一方だけ尖らせて跨いであるくやうな歩き方もあつた。袖を入れちがひに組んで小走りにする摺足もあつた。気を付けて見ると、何れも履物の影響が大きかつたやうである
1章8節362-19~363-2 柳田は①男女の風貌と、②男らしさと、③歩き方と、④履物とが、それぞれ連動して変化していったかのように示唆するが、その筆致は必ずしも整合的ではない。履物に関しては、基本的に、跣足→足半・草履→下駄→地下足袋→ゴム長靴といった「型式学的層序」があったと捉えていることに間違いないが、論点を少しずつ移行させながら、全体を俯瞰しているとみた方がよいだろう(前注したように、地下足袋とゴム長靴は、実際にはほぼ並行的に流行したように、跣足と草鞋には同時代における階層差もあった。「型式学的層序」とは地方差も含めた型式学的な順番のことであり、一系的な変遷を指すものではない)。 「袖を入れちがいに組んで小走りにする摺り足」は草履が、これに対...