岩本通弥– 執筆者 –
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色の種類に貧しい国
1章2節344-1 第6節で論じられる「和田三造画伯の色彩標本は五百ださうだ」(356-18)のように、日本では色彩は豊かでありながら、色名が少なかったことは、和田三造の研究か教示に依ったのであろう。最初に出てくる「日本は元来甚しく色の種類に貧しい国であつた」(344-1)というのは、たぶん記紀に登場する色が白・黒・紅・赤・丹・青の6色にすぎなかったということや、『延喜式』に記載された色相が38色であることに基づいている(内田広由紀『定本和の色事典増補特装版』視覚デザイン研究所、2008年)。また「少しちがつたものは悉く外国の語を借りている」(344-3)とは、くれない(呉の藍)、からくれない(唐紅・韓紅)、べんがら(紅殻、ベンガル)などを指している。えんじ色... -
染物師
1章2節344-17 「染物師は其中でも比較的新しい出現」(344-17)というのは、草木染めや渋柿染めなどの天然染料で、自ら染める手染(344-18)があまねく中に現われた、紺屋のことを指している。近世、麻に代って棉の栽培が広まるにつれ、次第に藍染めが発達し、当初町住みで渡り歩きの多かった紺屋が、村に定住し始めた。『都市と農村』で「染物師が民間染料の尚盛んに用ゐられる時代に入つて来て、秘伝と花やかなる出来上りとを以て、僅かな期間に農村の嗜好を一変させ、その独自の地盤を開拓した」(「職人の都市に集まる傾向」④244-13~14)と述べるように、村々に定着した染物屋は、錬金術師や魔法使いのように特殊な能力を持つ者として、当初、異人視された。その屋敷跡を、紺屋屋... -
一方の流行の下火は、いつと無く其外側の、庶民の層へ移つて行つた
1章4節349-2~3 定本柳田國男集や講談社学術文庫では「一方の上流の流行の下火は、いつとなくその外側の、庶民の層へ移っていった」と「上流」という語が加筆されている。この節だけでも「流行を始めた人たちは娯楽であつたかも知れぬが、それが普及するには別に又是だけの理由があつた」(349-10~11)とか、「所謂玄人たちはもう省みなくなつてからも、変つた色々の花が地方に普及し」(350-16)とするように、流行の都市・上流における発生と、地方・庶民への文化普及の方向性を、繰り返し説いている。「流行」を始めた人たちと区別し、普通の人びとの「心の変化」(349-5)という「普及」の理由を問うことや、流行が習俗として埋め込まれていく過程を、柳田は課題に据えているとい... -
町でも花屋が来ぬ日
1章4節349-9~10 柳田は花屋を店舗営業ではなく、行商の花屋を想定している。店を構えず,商品の名を大声で呼びながら売歩いた行商人のことを、振り売りと呼ぶ。天秤棒を用いるときは、棒手振(ぼてふり)とも呼んだ(「棒の歴史」『村と学童』⑭)。特に女性と商業との関係は、民俗学では販女(ひさぎめ、ひさめ)と称し、その物売り行為を古くから着目してきた(瀬川清子『販女』三国書房、1943年、北見俊夫『市と行商の民俗』岩崎美術社、1970年)。京都では平安中期から白川女(しらかわめ)と呼ばれる花売りが、「花いらんかえー」と触れながら頭上運搬で花を売り歩いた。白川女は京都市北東部の比叡山裾野を流れる白川の、両岸近辺に暮す北白川の女性たちで、売り方はリヤカー販売... -
これ以外にも鬱金とか桃色とか、木綿で無くては染められぬ新しい色が、やはり同じ頃から日本の大衆を悦ばせだした事
1章5節352-9~10 柳田は『木綿以前の事』で、俳諧七部集の『炭俵』にある「はんなりと細工に染まる紅うこん」などを紹介し(⑨429、⑨606)、次のように続ける。木綿が若い人たちに好まれた理由として、「第一には肌ざはり」、「第二には色々の染めが容易なこと、是は今までは絹階級の特典かと思つて居たのに、木綿も我々の好み次第に、どんな派手な色模様にでも染まつた。さうして愈々棉種の第二回の普及の効を奏したとなると、作業は却つて麻よりも遥かに簡単で、僅かの変更を以て之を家々の手機で織出すことが出来た」(⑨430—13~17)と述べている。 すなわち、芭蕉翁の頃、庶民の服の素材が麻から木綿へと変わっていった時期と、色彩文化史を専攻される國本学史氏のご教示によれば、... -
買縞
1章6節354-15 注文によって織らせた縞織物でなく、店で買う既製の縞織物のことで、安っぽい出来あいのものを意味する。「縞は外国から入つて来た流行らしい」(355-2)とは、古くは日本語にその名はなく、平行の縞模様は、筋や条、段、また縦横に交差するものを格子と呼んでいた。16世紀以降、南方からの舶載品として縞地の織物が流行し、これを「島渡り」「島物」などと呼んだことから転じて、複数の線から成る文様を「縞」と呼ぶようになったが、江戸前期には縦縞は遊女などが用いる異装に属する意匠と見なされ、横縞が主であった(丸山伸彦「縞」『江戸のきものと衣生活』小学館、2007年)。第3節に「縞や模様までも出来るだけ小さくして居た。さうして是が亦衣裳以外の、種々なる身... -
山本修之助
1章5節352-12 山本修之助(1903-1993)は、佐渡の郷土史家、民俗学者にして俳人。新潟県佐渡郡真野町(現・佐渡市真野新町)で、本陣であった山本半右衛門家に生まれ、家蔵の史料等を個人で整理した『佐渡叢書』佐渡叢書刊行会、1957~1982年、全16巻を編纂したのをはじめ、数多くの著書がある(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』相川町、2002年)。ここに引用された盆踊唄は、山本の『佐渡の民謡』は、地平社書房、1930年刊。晩年、付近にあった順徳天皇陵の宮内庁書陵部の陵墓守長として20年勤務したが、柳田の二度目の佐渡来島時(1936年)に行った厳格な陵墓参拝のエピソードは、山本の「来島の民俗学者」『佐渡の百年』佐渡の百年刊行会、1972年に記されてある。[岩本] -
木綿の感化
1章5節352-17~18 「木綿の感化」とは前後の文脈から明らかであるが、「若い男女が物事に感じ易く」(352-17)とあり、「幾分か人に見られるのを専らとする傾きを生じ、且つやゝ無用に物に感じ易くなつて来た」(353-4~5)と述べるのは、第8章「恋愛技術の消長」などの伏線となっている。1924年に執筆した「木綿以前の事」で、柳田は「色ばかりか(…)木綿の衣服が作り出す女たちの輪郭は(…)袷の重ね着が追々と無くなつて、中綿がたつぷりと入れられるやうになれば、又別様の肩腰の丸味ができて来る。(…)それよりも更に隠れた変動(…)は、歌うても泣いても人は昔より一段と美しくなつた。つまりは木綿の採用によつて、生活の味はひが知らずゝゝの間に濃かになつて来た」(⑨431-4... -
学生が制服に足駄をはき、ズボンに帯を巻いて手拭を挟んだりすることは、三四十年前から今も続いて居る
1章7節358-3 30~40年前とは、おおよそ1890~1900年の間のことで、柳田(旧姓松岡)の学生時代と重なっている。海軍士官服に倣った詰襟の導入は学習院の1879年(明治12)が早いが、東京帝国大学でも1886年には陸軍式の詰襟・金釦を用い、角帽と合わせて制服とした。以後、各地の中等教育以上の学校に普及するが、制服(洋服)は高価だったため、木綿絣に足駄(主として雨天用の高下駄をいう)を履き、学帽のみを被る姿が一般的だった。足駄に手拭とは、未舗装のぬかるみ道が多く、洗足の盥で、足を洗う機会が多かったことによる。1964年の東京オリンピック開催に合わせて、道路の舗装化が進む。東京都の舗装率は1960年の16.7%が65年に46.8%、75年に69.3%、85年に76.9%と急上昇する... -
牽牛花
1章4節350-9 節のタイトルで使った朝顔を、ここでは牽牛花と漢語由来の字で表記したのは、日本への渡来が薬用植物として持ち帰った遣唐使によることに、注意を向けさせるためかと思われる。世界的にみても、品種改良が最も発達した園芸植物で、観賞用に多種多様に変化した。変わり咲朝顔とも呼ばれる変化朝顔の主だった変異は、文化文政期の第一次ブームの際に起こり、嘉永安政期の再度のブームを経て、明治中期に再び流行した。7月七夕前後の3日間に入谷鬼子母神で催される朝顔市や、7月9日10日の両日に浅草寺で催されるほおずき市も、いずれも赤い花や実を賞することが、その基調となっている。鬼灯の実は、お盆に祖霊を導く提灯に見立て、枝葉付きで精霊棚に飾られる。なお、貞包英...