岩本通弥– 執筆者 –
-
今沢市
1章2節343-8 明治初年に創作された浄瑠璃『壺坂霊験記』の主人公の座頭・沢市が、観音の霊験で開眼したストーリーを持つことから、今・沢市と呼ばれた。聞藏Ⅱで沢市を検索すると、「アメリカの沢市/突然目は開いたお里のお婆さんに驚く」(1928年3月19日)のみヒットする。[岩本] -
花見
1章4節348-3 ここでいう花見は、躑躅(つつじ)や藤、山吹の咲き栄える頃とあって、桜に限っていない。中部以西では「三月三日、もしくはその何日かののちに、花見とも花ちらしとも言つて、必らず酒食をたずさえて」山遊びに行く風があり、九州一帯の海村での三月節供の日などの磯遊びや八重山のパナパナ(花々)と関連付けて、柳田は捉えている(「山歌のことなど」1932年『民謡覚書』、⑪58~61)。「青空の下に、酒を飲んで酔舞する」日本の花見は(「春を楽しむ術」1926年『豆の葉と太陽』、⑫254)、歌と男女の酒食が常に中心にあって、「歌が談話よりも自由な表白方法」(⑪64-3)だった「歌垣の名残」(⑪58-1)だと、彼は見なしている。中国地方や四国には4月8日(卯月八日・灌仏会... -
白といふ色
1章3節347-10 日本では「白は本来忌々しき色」で、神祭の衣か喪の服以外には身に著けずとあるように、清浄かつ神秘的な色とされた。「紺屋の白袴」と呼ぶ如く、褻着には白を用いなかったが、朝鮮半島では「白衣の民族」と自称したように、白は日常の衣服に着用されてきた。これに対して日本では、シロは葬儀の際の喪服や白装束などを指す言葉であり、その忌み言葉としてイロと呼ぶ地方も広かった(「イロ」『綜合日本民俗語彙』1巻、1955年)。[岩本] 台湾においても白は死を連想させる色であり、「白」字は葬儀に関する用語に見られる。喪服の色や形式は死者との親族関係により決定されるが、喪服の帽子を閩南語で「頭白」と総称する。また、葬儀の開催を知らせることを「報白」とい... -
吾妻廻り
1章1節341-15 色音論とも呼ばれた『吾妻廻り』は、徳永種久よる1643年(寛永20)刊行の仮名草子であり、当時の江戸の流行や名所を紹介した、のちの吉原細見の祖とされる。椿の流行やウズラ(鶉)の鳴き声など、民間些事の単なる観察記にすぎない、この取るに足らない小書を、柳田がわざわざ冒頭でふれるのは、「眼に見耳に聞いたものを重んじた態度だけは好い」(342-11~12)からである。第4章「風光推移」の「山水と人」で「文学にも実は沢山の粉本があつた」(418-6)と述べるように、絵や文章などの手本となるものを重視する粉本主義から、感覚を解放し、「所謂埃箱の隅でも描いていゝといふ流儀」(418-11~12)よって、表現をも自由にさせる点を評価したのであり、そこから観察で... -
国風
1章6節354-7 今日では「くにぶり」あるいは「こくふう」と読ませるのが普通であろうが、「くにふう」とルビが振られている(定本や平凡社東洋文庫版、講談社学術文庫版、中公クラシックス版などには、ルビはなし)。原典の朝日新聞社版や全集には、第2章の「肉食の新日本式」でも(2章7節388-9)にも、「くにふう」とルビがあって、誤字・誤植ではない蓋然性が高い。「くにぶり」「こくふう」と読ませると、原義の「地方の習俗」を想起させるためか、ナショナルな国レベルの習俗や日本風の文化の総体(あるいは世相)を指示して、そう訓じたのだと推察することもできる。『世相篇』には5ヵ所に「国風」が登場するが、全集では残り3ヵ所にはルビは振れられていない(2章2節372-3、6章2節... -
実験の歴史
1章1節342-9 柳田はこの「実験の歴史」の前に、「実験法」(341-10)という言葉を用い、その前後で、「方法」(341-7)「法則」(341-8)「調査」(341-8)「観察」(341-15)という語を用いている。「実験」という語は、他にも見えているが(342-14,19)、自序でも「採集」(337-13)「分類」(337-13)「標本」(338-8)「観察」(337-11)など、自然科学の論文と見間違うほどの用語法で、文章を埋め尽くしている。本書冒頭での、この記述は、単なる文飾を施したのでなく、自然主義運動(ナチュラリズム)の下、「実験の人文科学」として「実験の史学」(1935年、㉒416-3)を打ち立てたいとする、その意気込みが窺える箇所となっている(定本㉕では「実験の史学」と改題されているが... -
歴史は他人の家の事績を説くものだ、といふ考を止めなければなるまい
第1章第1節342-14~15 これに続けて柳田は、問題の立て方によって「他人にもなれば、また仲間の一人にもなるので、しかも疑惑と好奇心とが我々に属する限り、純然たる彼等の事件といふものは、実際は非常に少ない」と論じる(342-15~16)。彼は民俗学も広い意味での歴史だと位置づけたが、それは歴史学(文献史学)の補助科学という意味ではない。『世相篇』は世相史とも呼ばれるが、感情や感覚といったあくまで個人的な心意を掬い取りつつも、その中の共同的な「生」のあり様や仕組みの変化を、総体的なプロセスとして具体的に描こうとした。「歴史」を私たちの側に引き寄せて、自らの問題として考え、足元からその過去を問う態度や精神を、彼は「史心(ししん)」と呼んだ。あくまで... -
異常なる心理の激動
1章3節346-17 「童子から若者になる迄の期間(…)異常なる心理の激動」(346-16~17)とは、柳田が14歳のとき、布川のある祠の扉を開けたところ、青天に数十の星を見たという異常心理を来たしたが、鵯(ヒヨドリ)が啼いて正気に戻ったという逸話(『故郷七十年』1959年、㉑45)と関わっている。「体質の上に、如何なる痕跡を遺すものであつたか。はた又遺伝によつてどれだけの特徴を、種族の中に栽ゑ付けるものであるか」(346-17~18)は、1937年の「山立と山臥」の中で、修験道という異彩を放った信仰の歴史的発生を論じつつ、山伏の気質と習慣が日本人の気風に刻みつけた側面を探究すべきだと論じた(㉒484~485)ことと連なっている。「日本国民が古くから貯へて居た夢と幻との資... -
一箇のアヤといふ語を以て
1章3節346-20 「単に一箇のアヤといふ語を以て、心から心へ伝へては居たが(…)失神恍惚の間に於て、至つて細緻なる五色の濃淡配合を見て居た」(346-20~347-1)のおけるアヤとは、物の表面に現われたさまざまな形や模様で、特に斜めに交わった模様を指す。漢字で表わすと、彩、綾、絢、文などになるが、例えば「人生の―」といえば、表面的には見えないものの、辿ると見えてくる社会や世の中の入り組んだ仕組みを指している。柳田がここでアヤと表現したのは、初宮参りのあやつこ(額に墨付けされた交差する印)、あやご(宮古島の語りもの)、言葉の綾、綾言葉(真実に反して言葉を飾りたてる意である綺語)、あやかし(妖怪の古語)、あやかり(感化されて同じようになるの意)、あ... -
山茶花
1章4節349-1 椿の流行に続き、山茶花や木瓜(ぼけ)の流行で、近世日本の園芸の目まぐるしい発達を述べている。ここでは山茶花には漢名しかなく、帰化植物のように書かれてあるが、1938年の「白山茶花」では「花卉を愛玩する流行の始めは、一々の記録こそは得がたいが、少なくとも大名等が戦ひをしなくなつて後に相違ない。紅とか斑入とかの色々の珍種とともに、をかしなサザンクヮなどゝいふ名称が入つて来て、それが上層の間に行はれた結果、今まであつた凡庸の白山茶花までが、其中に巻き込まれてしまつた」とし、古名はカタシといって油をとった樹木だったと論じている(「白山茶花」1938年『豆の葉と太陽』⑫232)。[岩本] →日常+日常化、一方の流行の下火は、いつと無く其外側...