第1章第8節– category –
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大正終りの護謨長時代+跣足足袋、地下足袋
1章8節361-17~18+362-13 日本が初めてゴム長靴(以下、ゴム長)をアメリカから輸入したのが1905年(明治38)だったとされるが(高田公理「長靴」『大百科事典』。図1参照。それ以前にもゴム塗靴と呼ばれる半長靴も存在した。図2参照)、佐藤栄孝編『靴産業百年史』(日本靴連盟、1971年、173頁、以下、『百年史』と略)でも、「防寒耐水性に富むゴム靴の長所が認められ、急に需要がふえてきたのは日露戦争以降のこと」だったとされている。1907年には国産も始まり、間もなくゴム靴を海外に輸出するに至るほど、ゴム産業は急発展を示してゆくが、特に1919年(大正8)頃から、神戸を中心に本格的なゴム靴工業が展開する(渋沢『生活編』、69頁。日本工学会編『明治工業史9化学工業編』1... -
我邦の水田はどしどし排水して行くが、是から出て行く先には沼沢が多い。足を沾らして働くやうな土地だけが、僅に日本人の植民には残されて居るのである
1章8節362-17~18 本書が刊行された1931年(昭和6)時点で日本からの植民が行われていた地域は、台湾、樺太、関東州、朝鮮、南洋群島であり、当時は「外地」と呼ばれていた。また満洲においても非組織的で散発的であったが移民が模索されていた。ここでいわれている「沼沢の多い地域」として考えられるのは南洋諸島、あるいは未開拓の湿地帯が多かった満洲である。もともとドイツ領であった南洋諸島は、第一次世界大戦後、ヴェルサイユ講和条約(1919年)によってその経営権が放棄され、国際連盟に指名された国がこれを統治することになった。これに伴い赤道以北の島々は日本の委任統治領となるが、1921年(大正10)2月、沖縄の旅からの帰途にあった柳田は久留米で外務省からの電報を受... -
男女の風貌はこの六十年間に、二度も三度も目に立つてかはつた。~男の方でも男らしさの標準といふものが、誰定むるところとも無く別なものになつた。~肩を一方だけ尖らせて跨いであるくやうな歩き方もあつた。袖を入れちがひに組んで小走りにする摺足もあつた。気を付けて見ると、何れも履物の影響が大きかつたやうである
1章8節362-19~363-2 柳田は①男女の風貌と、②男らしさと、③歩き方と、④履物とが、それぞれ連動して変化していったかのように示唆するが、その筆致は必ずしも整合的ではない。履物に関しては、基本的に、跣足→足半・草履→下駄→地下足袋→ゴム長靴といった「型式学的層序」があったと捉えていることに間違いないが、論点を少しずつ移行させながら、全体を俯瞰しているとみた方がよいだろう(前注したように、地下足袋とゴム長靴は、実際にはほぼ並行的に流行したように、跣足と草鞋には同時代における階層差もあった。「型式学的層序」とは地方差も含めた型式学的な順番のことであり、一系的な変遷を指すものではない)。 「袖を入れちがいに組んで小走りにする摺り足」は草履が、これに対... -
著聞集には小馬を足駄だと謂った人の話があるが、駄といふからには何か基づく所はあつたのである
1章8節363-3 『古今著聞集』は中世の説話集。橘成季著。20巻。1254年(建長6)成立。「巻第20 魚虫禽獣」の719話「阿波国智願上人の乳母の尼、死後化生して馬となり、上人に奉仕の事」に以下のような一文がある。「阿波の国に智願上人とて国中に帰依する上人あり。めのとなりける尼死に侍りて後、上人のもとに、おもはざるに駄を一疋まうけたりけり」。おそらく柳田が指している話はこれであろう。この他に足駄が登場する話として、「近江国の遊女金が大力の事」(巻第15 相撲強力 381話)、「順徳院の御時、恪勤者其傍輩と賭け、内裏の番替りに高足駄にて油小路を通行の事」(巻第16 興言利口 538話)がある。[加藤] →下駄屋 -
下駄屋
1章8節363-5 遠藤武によると、1828年に刊行された『江戸買物独案内』には、草履屋や雪踏屋はあるものの、下駄屋の記載はなく、当時は、下駄は草履屋で売られ下駄専門店はなかったという。そして、幕末に至るまで都会では、主に草履が使われていたとしている(渋沢『生活編』65頁)。 西日本の下駄の一大産地の一つであった広島で下駄が生産されはじめたのは、18世紀末のことであり、19世紀初頭以降は、広島藩の産物統制政策により、広島城下の48軒の株組織にのみ小売りが制限されていた。広島の下駄が、京都から九州まで西日本一円に販路を拡大したのは、明治期以降に小売りが自由になってからであったという。特に明治の中頃から、松永(現福山市)で、油桐、針桐などの雑木を使って下... -
更に明治に入つてから突如として生産の量を加へた
1章8節363-6 「工場統計表」に下駄の生産量が載るようになるのは大正になってからであり、正確な生産量を提示することは難しい。ここでは、参考として、「工場統計表」により、草履・足袋・靴などの生産量とあわせて示した。[山口] 下駄の生産量の増加出典:『工場統計表』各年度(経済産業省ウェブサイト「工業アーカイブスにて閲覧」)より作成 →下駄屋 -
足を汚すまいとする心理
1章8節363-8 →足を沾らす+足を汚す -
町の流行で無かつたといふこと
1章8節363-15 ここでは、『世相篇』でしばしば目にする、「流行」を批判的に捉える視点から、藁沓・藁草履など農家が自家で生産していた履物が衰退していった背景が説明されている。 「流行」という問題について正面から批判的に論じているのは、第13章第4節「流行の種々な経験」である。そこで柳田は、「趣味」と「流行」を対照的に位置づけ、次のように述べている。 「村々の生産が未だ盛んであつた当時には、人は心静かに我境遇の趣味といふものを保持してゐた。尠くとも現在の様に国の南の端と北の端とが、一時に同じ流行に巻き込まれて悦ぶと云ふ様な、不思議な現象は見なかつたのである。それが村の生産の大部分を商人資本に引渡すと、忽ち一切の好みが彼等の思はくに指定せられ... -
新旧雑処して残つて居たといふこと
1章8節363-17 第8節の最終パラグラフの最後の二つの文では、第7節の「単に材料と色と形とが、自由に選り好みすることを許されて居るといふまでである」(1章7節361-5)と呼応する、「流行」批判を踏まえた柳田が理想とする消費のありかたに関する議論が展開している。 私たちは、結局、あくまでも与えられた「流行」を、一見「自由に選り好み」しているにすぎず、「独立して各自の必要品」を自ら考えてこなかったことに反省を促す。しかし特に柳田は、そうした「流行」により「前のもの」が滅ぼされてしまはず、「新旧雑処して残つていた」ことが「好都合なこと」だったと述べ、うわべの「材料と色と形」のみの変化のなかで、なお「前のもの」が残っている状況を一つの可能性としてと... -
遠慮無く望むこと又困ることを表白し得るやうになつたとしたら
1章8節363-18~19 「各人が自分の境遇、風土と労作との実際に照らして、遠慮無く望むこと又困ることを表白」するとは、自分が抱え込んでいる問題を、「遠慮」してわが身独りの問題として黙って耐えるのではなく、自分と同じ問題にさいなまれている者が居るに違いないことを前提に、自らの問題と事情を他に向かって表明することを意味している。それが『世相篇』が説く生活改良の第一歩であった。この部分は、第1章第1節の「問題の共同」(342-17)と呼応している。 さらに「自分の境遇、風土と労作の実際に照らして」という物言いには、「問題」の背景は、地方ごとに、また営まれる生活のかたちごとに異なっており、一律の手段を当てはめて解決できるわけではないという『世相篇』を貫...