第1章第7節– category –
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所謂洋服も亦とくに日本化して居る
1章7節357-4 本節には「洋服」と「ヨウフク」という二通りの表記がみられる。『世相篇』全体で「洋服」は9ヵ所に登場し、そのうち7ヵ所が第1章第7節に集中している。残りの2ヵ所は、第2章「食物の個人自由」第7節「肉食の新日本式」であり、洋食をめぐる議論のなかで言及があり(388-7)、もう1ヵ所は第10章「生産と商業」第1節「本職と内職」のなかで、仕事着の洋服化によって、衣服を家人が製作する生活が変わる可能性が示唆されている(526-9)。 一方、「ヨウフク」は第1章第7節に3ヵ所見出せる。一つ目が第7節冒頭の「ヨウフクといふ語が既に国語であると同じく、所謂洋服も亦とくに日本化して居る」(357-4)という発言であり、2ヵ所目は「ヨウフクの発見は至つて自然である」と... -
新たなる仕事着+制服
1章7節357-16+1章7節358-3 明治政府は、後述の「服装改革の詔」にあるように服制を「風俗」「国体」の問題として捉え、新たな服制を制定するにあたって、『大宝律令』(701年)以来の「制服」という古語を復活させる一方で、公家様式でも武士様式でもない、「洋服」を「新たな仕事着」(357-16)すなわち、制服として採用した。これは、幕末には、「異風」として町民らに禁止された服装であったが、何をもって「国風」(1章6節354-7)とみなすかは、時期文脈において大きく変化しており、柳田は変化の前段階を安易に「国風」、伝統として論じる見解を排する。北方史研究の浪川健治の指摘するように、江戸時代においても、「江戸言葉風俗」に対して「御国之言葉風儀」が対置されて後者... -
学生が制服に足駄をはき、ズボンに帯を巻いて手拭を挟んだりすることは、三四十年前から今も続いて居る
1章7節358-3 30~40年前とは、おおよそ1890~1900年の間のことで、柳田(旧姓松岡)の学生時代と重なっている。海軍士官服に倣った詰襟の導入は学習院の1879年(明治12)が早いが、東京帝国大学でも1886年には陸軍式の詰襟・金釦を用い、角帽と合わせて制服とした。以後、各地の中等教育以上の学校に普及するが、制服(洋服)は高価だったため、木綿絣に足駄(主として雨天用の高下駄をいう)を履き、学帽のみを被る姿が一般的だった。足駄に手拭とは、未舗装のぬかるみ道が多く、洗足の盥で、足を洗う機会が多かったことによる。1964年の東京オリンピック開催に合わせて、道路の舗装化が進む。東京都の舗装率は1960年の16.7%が65年に46.8%、75年に69.3%、85年に76.9%と急上昇する... -
婦人洋服の最近の普及
1章7節358-10 遠藤武「衣服と生活」(渋沢敬三編『明治文化史 12 生活』洋々社、1955年所収)によれば、女子の洋装は、1885年(明治18)に婦人の結髪改良がとなえられたことを契機に、東京女子師範学校をはじめ、秋田女子師範など、各地の女子学生たちが用い始め、1886年の天長節の鹿鳴館における大夜会に集まった婦人たちは、ことごとく洋装であったという。 しかし同時に遠藤は、女性の洋装は、男性の洋装に比べて「一般民間においては殆ど受け入れられなかった」とし、その理由として「立式様式」が「職場・学校など」に採用されたのみで一般家庭に普及せず、多くの女性が「自家または主家の座敷生活様式を固守していた家庭内の労働に従事してきたからである」としている。 1925年(... -
理由があつて中央の平坦部などには、その仕事着が早く廃れてしまつた
1章7節358-14~15 仕事着(野良着・労働着)の形態は、表1のように、(1)上半身・下半身につける衣服が分かれていない一部構成ワンピース式のものと、(2)上半身につける上衣と下衣が分かれる二部構成のものに大別され、後者はさらに①腰巻型②股引型③山袴型の三つに分けられた。「理由あつて中央の平坦部など」において仕事着が廃れたとは、大都市の衣生活の波及によって、裾を端折って襷がけをする普段着の転用が起きたという意味だろう。東北地方や山間部では山袴型が分布していたことから、当時、柳田の脳裏には周圏論的な型式学的広がりが想定されていたように思われる。第1次世界大戦後の1920年に文部省の半官半民の団体として設置された生活改善同盟会が、1931年に編纂した『農... -
腰きり、小衣
1章7節359-6 臀部が半分隠れる程度の丈の短い仕事着をコシキリ、コシビン、コギン、コギノなどという例は全国に見られ、麻、あるいは木綿製の裏地の無い単衣の上着のことをさす(「コシキリ」「コギン」『綜合日本民俗語彙』2巻、平凡社、1955年)。腰切り半纏ともいう。[加藤] →婦人洋服の最近の普及 腰切り半纏を着た植木屋の姿を描いた小説の挿絵。出典:「小説:吾嬬琴(3)」『大阪毎日新聞』1894年(明治27) 9月24日号 -
モンペ、モッピキ
1章7節359-6 モンペは袴の一種で、近代に入ると標準語として広く用いられたが、それほど古い言葉ではないと考えられる。言葉の起りはモモヒキと同じと推測されており、福島県、山形県を中心として、全国に見られる(「モンペ」『綜合日本民俗語彙』4巻、平凡社、1956年)。純粋な仕事着ではなかったが、労働に便利な改良が行われ、戦時中に女性の非常時服として採用され普及した。[加藤] →理由があつて中央の平坦部などには、その仕事着が早く廃れてしまつた、新らしい洋服主唱者にもし不親切な点があるとすれば~ 「鹽原山民之風俗」と題する記事の挿絵。出典:『国民新聞』1897年(明治30) 11月25日号 -
袖無し、手無し
1章7節359-6~7 古くは肩衣とも呼ばれ、庶民の衣服だったが、その後、武士の間で陣羽織となり、庶民の間では甚兵衛羽織となった。いわゆる「ちゃんちゃんこ」である。柳田が「東部の町ではもう小児か年寄りにしか着せて居ない」(359-7)と述べているように、東京では子供や老人がこれをよく着ていたが、地域によっては若い男や女性がこれを着る例もある。秋田県鹿角郡などでは、これをハッピといった(「ソデナシ」『綜合日本民俗語彙』2巻、平凡社、1955年)。[加藤] →婦人洋服の最近の普及、腰巻 祝い着として紹介されている袖無し。出典:『実用裁縫秘訣』(東京和服裁縫研究会編) 1920年(大正10) -
手甲、脛巾
1章7節359-8 手甲(てっこう)は、屋外での労働のとき、外傷、日差し、寒気を避けるために使われ、旅行、行商にも用いられた。形態は平型と筒型とがあり、平型は甲の部分が「やま」といわれる三角形か半円形となっており、その先についている紐に中指を通して手首に巻き、紐かこはぜで留める。材料は紺木綿が多いが、狩猟者は毛皮製のものを用いた(「手甲」『日本大百科全書』小学館、1994年)。 これに対し脛巾(はばき)は、膝下のはぎにつけ足を保護するもので、布、藁など様々な材料によって作られる。室町時代に脚絆(きゃはん)という語が現れ、こちらの名称が一般化するが、脚絆は布製のもので、脛巾は稲わらなどで作られたものとして区別する場合もある(宮本馨太郎「脚半」『... -
腰巻
1章7節359-10 腰巻は、女性が和装するときに下着として腰から脚にかけて、じかに肌にまとう布を指す。腰巻は肌着のほか、古くから婦人の労働着の役目をもっていた。おもに畑作業の際に下半身に腰巻を短く着用し、上半身には膝下までの長さの野良着を着て、足には脚絆をつけるのが一般的であった。農村では腰巻をつけることが一人前になった証であり、女子は13歳になると〈ヘコ祝い〉〈腰巻祝い〉〈湯文字祝い〉などといって,母親の実家や親戚から贈られた赤または白の木綿の腰巻を初めて着用する習わしが各地で見られた(「腰巻」『改訂新版 世界大百科事典』平凡社、2014年)。[加藤] →洗濯、所謂洋服も亦とくに日本化して居る、婦人洋服の最近の普及、袖無し、手無し、露出の美を...
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