第1章第6節– category –
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国風
1章6節354-7 今日では「くにぶり」あるいは「こくふう」と読ませるのが普通であろうが、「くにふう」とルビが振られている(定本や平凡社東洋文庫版、講談社学術文庫版、中公クラシックス版などには、ルビはなし)。原典の朝日新聞社版や全集には、第2章の「肉食の新日本式」でも(2章7節388-9)にも、「くにふう」とルビがあって、誤字・誤植ではない蓋然性が高い。「くにぶり」「こくふう」と読ませると、原義の「地方の習俗」を想起させるためか、ナショナルな国レベルの習俗や日本風の文化の総体(あるいは世相)を指示して、そう訓じたのだと推察することもできる。『世相篇』には5ヵ所に「国風」が登場するが、全集では残り3ヵ所にはルビは振れられていない(2章2節372-3、6章2節... -
麻しか産しない寒い山国でも、次第に麻作を手控へて
1章6節354-14 木綿に取って代わられたとはいえ、麻づくりがただちに消滅したわけではなく、『世相篇』の時代においても、麻の衣類は着用され、また、麻の栽培も継続していた。そもそも、綿花の栽培は温暖で湿潤な気候が適するといい、国内でも綿花栽培は東北地方では成長しなかった(永原慶二『苧麻・絹・木綿の社会史』吉川弘文館、2004年)。『木綿以前の事』収録の「何を着ていたか」において、柳田は熊本県の九州製紙会社を見学した際に紙の原料となる古麻布を東北から取り寄せている事実に注目し、同地方では冬でも麻布を着用していたことを報告している(⑨438)。すなわち、「寒国には木綿は作れないから、一方には多量の木綿古着を関西から輸入して、不断着にも用ゐて居るが、冬... -
買縞
1章6節354-15 注文によって織らせた縞織物でなく、店で買う既製の縞織物のことで、安っぽい出来あいのものを意味する。「縞は外国から入つて来た流行らしい」(355-2)とは、古くは日本語にその名はなく、平行の縞模様は、筋や条、段、また縦横に交差するものを格子と呼んでいた。16世紀以降、南方からの舶載品として縞地の織物が流行し、これを「島渡り」「島物」などと呼んだことから転じて、複数の線から成る文様を「縞」と呼ぶようになったが、江戸前期には縦縞は遊女などが用いる異装に属する意匠と見なされ、横縞が主であった(丸山伸彦「縞」『江戸のきものと衣生活』小学館、2007年)。第3節に「縞や模様までも出来るだけ小さくして居た。さうして是が亦衣裳以外の、種々なる身... -
縞を知らない国々との交際
1章6節355-5 縞という言葉は江戸時代に入って普及したもので、近世初期の南蛮貿易の輸入品として、南方の島々からやってくる織物が島木綿と呼ばれたこと由来する。縦横の意匠をあしらった縞模様の布製品が存在する国は、インド、中国などであり、江戸ではインド・サントメ産の桟留縞(さんとめしま)、ベンガル産の弁柄島(べんがらしま)などが流行した(松田毅一「南蛮風俗」『国史大辞典』吉川弘文館、1989年)。柳田は、近世に麻から木綿へと衣生活が変化する過程で、様々な模様を描き出す工夫が女性たちによって行われたことが縞の発達に影響を与えたと指摘している(「女性史学」『木綿以前の事』1939年、⑨607~608)。 欧州で縞の意匠は一般的でなく、開国後の綿布の輸出におい... -
綿フランネル
1章6節355-7 フランネルとは毛織物のこと。ネルと略した。綿フランネルとは、フランネルに似せて綿糸で織った綿織物のこと。綿ネルとも言う。1870年、畠山義信(1841-1894)が、和歌山藩の兵士の被服・肌着用に、起毛した綿織物を試作したのがはじまりとされる。毛織物は当初ほとんど輸入するほかなかったが、綿フランネルは国内生産が可能だったこともあり、軍隊の制服などに採用され、需要の高まりとともに縞なども織られるようになった。日清戦後には中国や朝鮮にも盛んに輸出された。代表的な産地は和歌山県であり、紀州ネルと呼ばれる。こうした来歴のほか、創始者とされる畠山義信にはそのことで1898年に銀杯が下賜される一方で、たとえば文盛堂編集所『世界発明譚-科学の進歩』... -
大正四年の染料医薬品製造奨励法
1章6節355-12 1915年法律第19号「染料医薬品製造奨励法」は全9条と附則からなる。同法における染料とは、「『アニリンソルト』、『アニリン』染料、『アリザリン』染料及人造藍」のこと。アニリンはアミノベンゼンとも言われ、特有の臭気を持つ無色油状の液体。それを塩酸と反応させて得られるのがアニリンソルト(アニリン塩酸塩)。いわゆるアニリン染料の原料であり、20世紀初頭には合成染料の代表格であった。アリザリンと人造藍(インジゴ)は、それより後発の合成染料。同法は、これらを製造する国内の株式会社に対し、補助金を交付することを定めている。「世界大戦時代の貿易杜絶によつて」(355-11)とあるように、第1次世界大戦の勃発により、それまでほとんどドイツからの輸... -
一種の中間性+モスリン
1章6節355-15 モスリンは、18世紀から19世紀にかけてヨーロッパで大流行した平織の綿染織物だったが、19世紀後半になると羊毛を使ったモスリンがつくられ、それが明治初期の日本に輸入されることになった。したがって日本でいうモスリンは、綿織物ではなくもっぱら毛織物を意味していた。そしてもともと洋装の素材だったモスリンは、それ以後日本では日常着用の和装の素材として普及することになった。 近代以降の日本におけるモスリンの普及について、先川直子(先川「近代日本におけるモスリン」(『目白大学短期大学部 研究紀要』47号、2011年)によりみていく。輸入されるモスリンの染の柄は日本の和装に合わず、型友禅の技術を使って染色を行うようになり、生地を輸入してローラ... -
流行
1章6節356-1 本書の導入部である「新色音論」は、近世の椿と鶉(うずら)の流行に触れているが、流行の位置づけと、それにどのような態度で臨むかという問題は、『世相篇』に貫徹したテーマである。 本節のタイトルは、「流行に対する誤解」だが、この誤解とは、近代の日本における衣生活の変化が、「始終欧米服飾の趣味流行に、引き廻されて居るものの如く考へること」(357-2)を指す。例えばモスリンの普及に言及した箇所では、「最初は模倣であったが、即座に我々は之を日本向きと化し、後には又他で見られない特産として認めさせた」(355-16)と述べ、その過程で形成された「過去数十年の唐縮緬文化」が、「毛糸の利用普及」、「厚地毛織物の生産増加」、そして「染色技術の進歩... -
所謂生活改良家
1章6節356-9 「問題はただその次々の実験の途中、やたらに理想形だの完成だのといふ宣伝語を、真に受けることがよいか悪いかで、所謂生活改良家は少しばかりその説法がそゝつかしかつた様に思はれる」(356-8~9)とは、第15章の章題が「生活改善の目標」であるように、1920年1月に文部省内に半官半民の団体として設立された生活改善同盟会の活動や、それを中心に拡がった生活改善運動を、暗に批判している。第8節の「生活を改良する望み」(363-30)であるとか、第7節の「新しい洋服主義者にもし不親切な点があるとすれば、強ひてこの久しい行き掛りと絶縁して、自分等ばかりで西洋を学び得たと、思つて居ることがやゝそれに近い」(359-16~17)も、同様の見方であり、生活改善運動に... -
和田三造画伯の色彩標本は五百ださうだ
1章6節356-18 和田三造(1883-1967)は、明治・大正・昭和期に活躍した洋画家、版画家。色彩研究にも傾注し、1927年(昭和2)に日本標準色協会を創設、主宰し、『日本標準色カード』(日本標準色協会、1929年)や『色名總鑑』(春秋社、1931年)などを著した。その「標準色協会の仕事」(『日本色彩学雑誌』17巻2号、1993年に復刻、原文は1944年頃か)という文章に、今から17年前に日本標準色協会を設置し、「最も実用的と思はれる日本人的?な色彩五〇〇種を選定した」とし、「日本標準色カード500」を世に問うたのは、1929年(昭和4)のことだったと記されてある。[岩本] →色の種類に貧しい国
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