加藤秀雄– 執筆者 –
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袖無し、手無し
1章7節359-6~7 古くは肩衣とも呼ばれ、庶民の衣服だったが、その後、武士の間で陣羽織となり、庶民の間では甚兵衛羽織となった。いわゆる「ちゃんちゃんこ」である。柳田が「東部の町ではもう小児か年寄りにしか着せて居ない」(359-7)と述べているように、東京では子供や老人がこれをよく着ていたが、地域によっては若い男や女性がこれを着る例もある。秋田県鹿角郡などでは、これをハッピといった(「ソデナシ」『綜合日本民俗語彙』2巻、平凡社、1955年)。[加藤] →婦人洋服の最近の普及、腰巻 祝い着として紹介されている袖無し。出典:『実用裁縫秘訣』(東京和服裁縫研究会編) 1920年(大正10) -
手甲、脛巾
1章7節359-8 手甲(てっこう)は、屋外での労働のとき、外傷、日差し、寒気を避けるために使われ、旅行、行商にも用いられた。形態は平型と筒型とがあり、平型は甲の部分が「やま」といわれる三角形か半円形となっており、その先についている紐に中指を通して手首に巻き、紐かこはぜで留める。材料は紺木綿が多いが、狩猟者は毛皮製のものを用いた(「手甲」『日本大百科全書』小学館、1994年)。 これに対し脛巾(はばき)は、膝下のはぎにつけ足を保護するもので、布、藁など様々な材料によって作られる。室町時代に脚絆(きゃはん)という語が現れ、こちらの名称が一般化するが、脚絆は布製のもので、脛巾は稲わらなどで作られたものとして区別する場合もある(宮本馨太郎「脚半」『... -
流行
1章6節356-1 本書の導入部である「新色音論」は、近世の椿と鶉(うずら)の流行に触れているが、流行の位置づけと、それにどのような態度で臨むかという問題は、『世相篇』に貫徹したテーマである。 本節のタイトルは、「流行に対する誤解」だが、この誤解とは、近代の日本における衣生活の変化が、「始終欧米服飾の趣味流行に、引き廻されて居るものの如く考へること」(357-2)を指す。例えばモスリンの普及に言及した箇所では、「最初は模倣であったが、即座に我々は之を日本向きと化し、後には又他で見られない特産として認めさせた」(355-16)と述べ、その過程で形成された「過去数十年の唐縮緬文化」が、「毛糸の利用普及」、「厚地毛織物の生産増加」、そして「染色技術の進歩... -
我邦の水田はどしどし排水して行くが、是から出て行く先には沼沢が多い。足を沾らして働くやうな土地だけが、僅に日本人の植民には残されて居るのである
1章8節362-17~18 本書が刊行された1931年(昭和6)時点で日本からの植民が行われていた地域は、台湾、樺太、関東州、朝鮮、南洋群島であり、当時は「外地」と呼ばれていた。また満洲においても非組織的で散発的であったが移民が模索されていた。ここでいわれている「沼沢の多い地域」として考えられるのは南洋諸島、あるいは未開拓の湿地帯が多かった満洲である。もともとドイツ領であった南洋諸島は、第一次世界大戦後、ヴェルサイユ講和条約(1919年)によってその経営権が放棄され、国際連盟に指名された国がこれを統治することになった。これに伴い赤道以北の島々は日本の委任統治領となるが、1921年(大正10)2月、沖縄の旅からの帰途にあった柳田は久留米で外務省からの電報を受... -
腰巻
1章7節359-10 腰巻は、女性が和装するときに下着として腰から脚にかけて、じかに肌にまとう布を指す。腰巻は肌着のほか、古くから婦人の労働着の役目をもっていた。おもに畑作業の際に下半身に腰巻を短く着用し、上半身には膝下までの長さの野良着を着て、足には脚絆をつけるのが一般的であった。農村では腰巻をつけることが一人前になった証であり、女子は13歳になると〈ヘコ祝い〉〈腰巻祝い〉〈湯文字祝い〉などといって,母親の実家や親戚から贈られた赤または白の木綿の腰巻を初めて着用する習わしが各地で見られた(「腰巻」『改訂新版 世界大百科事典』平凡社、2014年)。[加藤] →洗濯、所謂洋服も亦とくに日本化して居る、婦人洋服の最近の普及、袖無し、手無し、露出の美を... -
著聞集には小馬を足駄だと謂った人の話があるが、駄といふからには何か基づく所はあつたのである
1章8節363-3 『古今著聞集』は中世の説話集。橘成季著。20巻。1254年(建長6)成立。「巻第20 魚虫禽獣」の719話「阿波国智願上人の乳母の尼、死後化生して馬となり、上人に奉仕の事」に以下のような一文がある。「阿波の国に智願上人とて国中に帰依する上人あり。めのとなりける尼死に侍りて後、上人のもとに、おもはざるに駄を一疋まうけたりけり」。おそらく柳田が指している話はこれであろう。この他に足駄が登場する話として、「近江国の遊女金が大力の事」(巻第15 相撲強力 381話)、「順徳院の御時、恪勤者其傍輩と賭け、内裏の番替りに高足駄にて油小路を通行の事」(巻第16 興言利口 538話)がある。[加藤] →下駄屋 -
全体に一つの強烈なる物音が、注意を他のすべてから奪ひ去るといふ事実は、色の勝ち負けよりも更に著しいものがあった
1章9節365-7~8 柳田が音に対する人びとの意識の問題を取り上げた早い時期の例として、『遠野物語』(1910年)の33話にある「白望の山に行きて泊まれば、深夜にあたりの薄明るくなることあり。秋の頃茸を採りに行き山中に宿する者、よく此事に逢ふ。又谷のあなたにて大木を伐り倒す音、歌の声など聞ゆることあり」という一文が挙げられる(②24)。「遠野物語拾遺」(1935年)の第164、236話にも「耳の迷い」「経験の一画期」と題して同様の話が収められているが、後者は1927年(昭和2)に飛行機が遠野上空を初めて飛んだ時のプロペラの音に対する人びとの反応を記したものである(②157~158)。この他にも、人びとが異様な音に注目していたことを示す話が、「山島民譚集(三)」(未刊...
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