加藤秀雄– 執筆者 –
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花木が庭前に栽ゑて賞せられる
1章4節348-9 柳田は花が先祖に供えられるもの、あるいは神に捧げられるものであることに着目し、「祭」「節句」を連想させるものだとしている。そしてこれが庭に栽えられるようになったのは、「酒が遊宴の用に供せられるに至った」のと軌を同じくするとしているが、信仰と結びついていた花と酒が、娯楽の場に取り入れられた過程に注目していたことが窺える。寺や神社などの霊地に古木が存在することや、日常的な労働の場である庭の片隅に花木を栽えて「特別な作業即ち季節毎に神を迎へる場」とする行為の背景に、信仰の影響を想定する視点は、「しだれ桜の問題」(1936年『信州随筆』⑨22)などにも見られる。なお理由は様々だが、庭に植えることが忌まれる花木も多く、その数は確認され... -
前栽といふのは、農家では蔬菜畠のこと
1章4節348-11~12 家の前庭に植えた草木を前栽といい、「せざい」ともいう。『蜻蛉日記』(975年)に「せんざいの花、いろいろに咲き乱れたるを」とあるように、平安時代の貴族は前栽に趣向を凝らし、「前栽合」でその優劣を競った。翻って庶民は、庭先で野菜などを栽培していたことから、後に野菜、青物は「前栽物」と呼ばれるようになる。これを略して前栽ともいった。大槻文彦『言海』(1886年)によると「蔬菜」の語は18世紀半ばごろから広く見られるようになり、それ以前は「な」「あおもの」が一般的だったようである。このころから前菜を蔬菜畠というようになったと考えられる。近世の町において人々が庭で野菜を栽培するのは普通だったが、これが近代に入って衰退し、都市の人... -
椿の花が流行
1章4節348-15 江戸における椿の流行は、1643年(寛永20)刊の『あづまめぐり(別名・色音論)』に見られ、江戸の市井の出来事を記した『武江年表』(斎藤月岑著、正編1850年、続編1882年)にも、その記述が引用されている。当時の人びとは品種改良や突然変異による「変わりもの」を珍重し、「百椿図」(17世紀・伝狩野山楽筆)などの絵画も描かれた。柳田は、日本全国に広く分布する椿が、人々の信仰と深く関わるかたちで広がったと考えた。特に寒冷地の北日本にまで椿が分布するためには、「人間の意志」が不可欠であるとし、「天然記念物」ではなく「史跡記念物」である可能性を示唆している。八百比丘尼が持ち歩いたとされる玉椿の枝や、東北の民間宗教者の呪具である椿の槌、卯月八... -
綿年貢の算法
1章5節352-2~3 元禄期以降、畿内を中心とする地域で綿作が盛んになるが、従来の検見取法では、その成果を十分に取り立てることが困難になっていった。これに対し、享保期以降の幕府における年貢増徴の実務を担当した神尾春央(かんおはるひで)は、田方木綿勝手作法を施行し、田地への綿作をはじめとする商品作物の作付は、すべて稲作の上毛なみの年貢を賦課する手段を実施した。一方、畑地は、その等級に応じて年貢を定める畝引検見(せびきけみ)から、現実の綿作生産力を直接把握する有毛検見(ありげけんみ)を1744年(延享元年)に施行し、これに基づくかたちで年貢を取り立てていった(佐藤常雄「木綿検見」『国史大辞典』4巻吉川弘文館、1984年)。[加藤] →紺を基調とする民... -
赤い花
1章4節349-12 小林一茶の「赤い花」の俳句は、自分の亡くなった娘を思って詠んだものである。赤い花が好きだった娘も生前はそれを摘むことが叶わず、亡くなって初めて手向けられたという意味だが、この俳句は赤い花が死者と深く結びつくものであったことを暗示している。 柳田は「地梨と精霊」という文章の中で、長野県東筑摩郡の各村の精霊棚に林檎を糸に結わえて引きかける例が多いことを紹介し、これが明治以降の文化であるとして、以前は地梨、すなわち草木瓜(クサボケ)の実だったと推測している。ボケも赤い花と実をつけ、庭にこの木を植えることは忌まれたが、柳田は「赤い果物」を盆の精霊に供へる習慣は「気を付けて居ると他の地方にも有るやうだ」と述べており、東北のハマ... -
明治年代の一大事實
1章4節349-15 近代以前から日本における帰化植物は徐々に、その数を増やしたと考えられるが、開国以降、爆発的にその種類は増加した。横浜や神戸の来日外国人が設立した商社は、日本から多くの植物を欧米に輸出し、それとともに海外から洋種花卉の導入にも努めている。明治初期の東京では江戸川、多摩川の土手で花の取引が行われており、国内で花卉類の輸出入を目的とする横浜植木商会、新井清太郎商店などが設立されたのは明治中頃である。主要な園芸植物の多くはこの時代に導入された。明治後期から大正期にかけては、各地で花問屋が活動するようになり、花屋の数も増加していく。関東大震災以降、花問屋は花卉市場へと活動の場を移し、昭和期に入ると地方にも花卉市場が誕生した(「... -
家の内仏に日々の花を供へるやうになつた
1章4節350-4 柳田は盆棚が常設化して仏壇になったと考えており(『「四一 常設の魂棚」1946年『先祖の話』⑮76~77)、ここでは仏壇に日々の花を供えるのも「近代」のものとしている。その背景に、いつでも花が手に入るようになった流通の発達、および新種の増加を想定しているが、そのために花を手に入れて捧げることに対する特別な心持ちは失われたのである。なお仏壇の起源は諸説あるが、17世紀の寺請制度によって檀家となった家が、位牌を置く棚を設けたことに端を発するとされる(森隆男『住居空間の祭祀と儀礼』岩田書院、1996年)。[加藤] →盆花、花木が庭前に栽ゑて賞せられる、町でも花屋が来ぬ日、赤い花 -
縞を知らない国々との交際
1章6節355-5 縞という言葉は江戸時代に入って普及したもので、近世初期の南蛮貿易の輸入品として、南方の島々からやってくる織物が島木綿と呼ばれたこと由来する。縦横の意匠をあしらった縞模様の布製品が存在する国は、インド、中国などであり、江戸ではインド・サントメ産の桟留縞(さんとめしま)、ベンガル産の弁柄島(べんがらしま)などが流行した(松田毅一「南蛮風俗」『国史大辞典』吉川弘文館、1989年)。柳田は、近世に麻から木綿へと衣生活が変化する過程で、様々な模様を描き出す工夫が女性たちによって行われたことが縞の発達に影響を与えたと指摘している(「女性史学」『木綿以前の事』1939年、⑨607~608)。 欧州で縞の意匠は一般的でなく、開国後の綿布の輸出におい... -
腰きり、小衣
1章7節359-6 臀部が半分隠れる程度の丈の短い仕事着をコシキリ、コシビン、コギン、コギノなどという例は全国に見られ、麻、あるいは木綿製の裏地の無い単衣の上着のことをさす(「コシキリ」「コギン」『綜合日本民俗語彙』2巻、平凡社、1955年)。腰切り半纏ともいう。[加藤] →婦人洋服の最近の普及 腰切り半纏を着た植木屋の姿を描いた小説の挿絵。出典:「小説:吾嬬琴(3)」『大阪毎日新聞』1894年(明治27) 9月24日号 -
モンペ、モッピキ
1章7節359-6 モンペは袴の一種で、近代に入ると標準語として広く用いられたが、それほど古い言葉ではないと考えられる。言葉の起りはモモヒキと同じと推測されており、福島県、山形県を中心として、全国に見られる(「モンペ」『綜合日本民俗語彙』4巻、平凡社、1956年)。純粋な仕事着ではなかったが、労働に便利な改良が行われ、戦時中に女性の非常時服として採用され普及した。[加藤] →理由があつて中央の平坦部などには、その仕事着が早く廃れてしまつた、新らしい洋服主唱者にもし不親切な点があるとすれば~ 「鹽原山民之風俗」と題する記事の挿絵。出典:『国民新聞』1897年(明治30) 11月25日号
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