第1章第8節– category –
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明治三十四年の六月に、東京では跣足を禁止した
1章8節361-6 明治34年5月29日警視庁令第41号のことで、全文は、「「ペスト」予防の為東京市内に於ては住家内を除く外跣足にて歩行することを禁す。/本令に違背したる者は刑法第四百二十六条第四号により拘留又は科料に処す」(『警視庁東京府公報』)。 ペストはペスト菌による感染症。この禁令は、直接的には、同じ月に東京帝国大学構内において死んだネズミよりペスト菌が発見されたことにともなうものである。ただこの庁令は、その発令時から風俗取締との関係が注目されており、たとえば雑誌『風俗画報』には、「従来、車夫、馬丁、車力其の他職工等、労働者社界には、跣足にて市中を往来するもの多く、(…)跣足もとより未開の余風として端人の恥づべき所なり。今回は庁令を以て禁... -
露出の美を推賞しなければならぬ機運
1章8節361-8 これに続く「不思議なる事実」(361-9)とは、西洋諸国との関係が、生活の中での身体露出を制限しようとする流れを生む一方、美的表現としての身体露出を取り込もうとする流れをも生み、それらが軋轢を生じていたということである。ここでいう「露出の美」は、西洋美術の伝統的な画題である「裸婦」に代表される裸体画である。 フランスで美術教育を受けた黒田清輝は1893年(明治26)に東京美術学校西洋画科に講師として赴任し、日本の洋画の確立に貢献するが、彼が重きを置いたのが「裸婦」であった。日本における裸体画の嚆矢は黒田が1895年(明治28)に第4回内国勧業博覧会に出品した『朝妝(ちょうしょう)』であり、同作品は裸体画が猥褻か芸術かという論争を引き起こ... -
人が足を沾らして平気で居てもよいか悪いか
1章8節361-11 柳田はここでなぜ「足を『濡』らして」ではなく、「足を『沾』らして」と書いているのだろうか。小川環樹ほか編『角川新字源』(改訂版、1994年)によると、沾は水と音符占→黏とから成り、水がつき、「うるおう」意で霑に同じ。濡は水と音符需から成り、もと川の名。ともにうるお−ふ(う)、うるお−す、ぬ−る(らす)などと訓む。字義において、沾(霑)は衣服・土地・山林の類がしっぽり全体にしめりうるおう意なのに対して、濡はびっしょり、しずくのたれるようにぬれる意(同上、1259頁の「同訓異義」参照)。柳田はここで「沾らして」と言っているのは、びっしょり「濡れる」のではなく「しめりうるおう」のであるから、沾の字を用いるのは用字として正確である。[白... -
足を沾らす+足を汚す
1章8節361-11、362-16,18+1章8節363-8 「人が足を沾らして平気で居てもよいか悪いか」という文章について、本節中に散見する「足を沾らす」こと、または「足を汚す」ことを柳田がどう捉えていたのかを解説する。本節には足を沾らすことも含め、足を汚すことについて3ヵ所の言及がある。これを忌避する感覚は、木綿の質感が好まれ、足袋を穿くことが「習ひ」となったことから発生したと柳田は述べ、あわせて、「足を沾らすことを気にすること、足袋の役立つ仕事を好むといふことは、可なり我々には大きな事件」であったとする(362-16~17)。『木綿以前の事』収録の「國民服の問題」(⑨463~467)では、「都市の格別働かない人たちのいゝ加減な嗜好を、消費の標準にさせて気づかずに置... -
草鞋は通例足の蹠よりもずつと小さく
1章8節361-13 足半(あしなか)のことであろう。かかとにあたる部分のない短い藁草履(わらぞうり)。鼻緒を別にすげるのではなく、台部の芯縄の末端を表に出して鼻緒とし、前で横緒と結ぶ。軽くて走りやすく、武士などが好んで用い、農山漁村でも作業用に広く用いられた。「足半には礼儀なし」、「足半を履かせる」などの言い方がある。足半に対して、普通の長さのものを長草履という。アチックミューゼアム編『所謂足半(あしなか)に就いて』(『アチックミュージアム彙報』9、1936年)がある。[山口] →明治三十四年の六月に、東京では跣足を禁止した、柳田國男の足元、男女の風貌はこの六十年間に、二度も三度も目に立ってかはつた~、下駄屋 -
足袋
1章8節362-2 柳田は『雪國の春』収録の「豆手帖から」で、足袋の普及は木綿の普及後の出来事であるとしながら、その前身の革足袋について、「僅かに人間の足の皮の補助をするといふまでで、汚さもきたなく、心を喜ばしむべきものでは無かつた」とし、「五尺三尺の木綿が始めて百姓の手にも入り、足袋にでもして穿かうと云ふ際には、やはり今日の絹キャリコに対するやうな、勿体なさと思ひ切りを、根が質朴な人々だけに、必ず感じ且つ楽んだことゝ思ふ」と述べている(③708-17~709-1)。 平安期の『倭名鈔』にみえる多鼻ないし単皮は動物の一枚皮で作成した半靴(筒のない靴)であった。鎌倉期以降の武士は皮をなめした革足袋をもちいたが、獣毛のついたままの毛足袋もマタギなどに使用... -
柳田國男の足元
1章8節 柳田國男の足元に注目してみよう。柳田は夏場は裸足にスリッパ、または下駄を履いている。春から秋にかけての写真をみると、足袋にスリッパ、草履、下駄という組み合わせである。なお、夏場の写真はいずれも戦前のものであり、春から秋の写真はいずれも戦後の写真である。[及川] →明治三十四年の六月に、東京では跣足を禁止した、草鞋は通例足の蹠よりもずつと小さく、足袋、素足 はだしにスリッパ(昭和2年頃、自宅。「清水浪子ことシュバルツマン女史と。右端は野澤虎雄」)所蔵:成城大学民俗研究所 はだしに下駄(昭和8年7月。自宅庭)所蔵:成城大学民俗研究所 白足袋に下駄?(昭和27年6月、自宅庭)所蔵:成城大学民俗研究所 厚手の白足袋(昭和29年、「芝白金八芳園に... -
素足
1章8節362-2~3 素足と跣・裸足の違いは、履き物や靴下などを履かない足の状態に重きを置いた言い方が素足である。土足で上がってはならない場所では素足が、土足の場所では跣・裸足が使われる。砂浜を走るのは跣・裸足であって、素足ではない。はだしは、肌足(はだあし)の変化した語とされ、履物をはかないで地面を歩くことを、徒跣(かちはだし)とも呼んだ。[岩本] →靴は其の本国では脱ぐ場所が大よそ定まつて居る~、明治三十四年の六月に、東京では跣足を禁止した、柳田國男の足元、殿中足袋御免、下駄屋 -
殿中足袋御免
1章8節362-5 中国より伝来した履物は、襪(しとうず)と舃(せきのくつ)の組み合わせとして、養老衣服令(えぶくりょう)の礼服と朝服とにも取り入れられている。しかし、襪はひもで結ぶ足を包む袋というべきものであり、指の部位は分かれていない。 他方、皮製の、足を包む履物も存在し、武家の間に普及した。武家においては、礼装では素足が正装とされ、防寒具としての足袋は、病気や高齢を理由に冬季のみ「殿中足袋御免」を願い出て、許可を得た場合にのみ特例として着用することができた。 『日本服飾史』によれば、寛永年間の頃から木綿足袋が現われた(谷田閲二、小池三枝、光生館、1989年)。社会に広く普及するなかで、筒の短い半靴が生まれ、色には流行があったが、男性は紺... -
出井盛之君の「足袋の話」
1章8節362-9 早稲田大学教授であった出井盛之(いでい せいし1892-1975)の著作『足袋の話―足袋から観た経済生活』(多鼻会、1925年)のこと。全48頁の小冊子であるが、現地の生産現場などの観察から問いを発する「行動経済学」を主唱した出井の、『行動経済学の立場より』(巌松堂、1923年)は当時、有名で、この書も『勤労者講座―足袋の話』(勤労者教育中央會、1926年)として版を重ねていた。わざわざ固有名詞をあげ、これに言及するのは、柳田の考える経済学に捉え方が近かったためか。[岩本] →足袋