第1章第5節– 注釈一覧 –
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渋さの極致
1章5節351-14 すでに第3節に「渋いといふ味わひ」(347-16~17)が、また第4節には「陰鬱なる鈍色」(351-3)が出てくるが、鈍色(にぶ色)とはにび色ともいい、濃いねずみ色のことで、喪服などに用いられる。定本や講談社学術文庫版では、にびいろとルビが振られてある。渋さとは、柿渋や茶渋に対する味覚の表現から、渋い顔のような苦り切った表情に対してだけでなく、渋い演技のような、派手でなく落ち着いた趣があって、地味で深い味わいを指す場合にも用いられる点が、日本ならではの価値観・美意識だともいえる。具体的には、第3節の「樹蔭のやうなくすみを掛け、縞や模様までも出来るだけ小さくして居た」(345-16~17)が、これに相当する。この価値観・美意識が日本的なのは、... -
季節信仰
1章5節351-15 季節信仰は民俗学においても耳慣れない表現であるが、往々にして、民俗信仰は年中行事のなかで特定の季節(感)と対応するものであった。そのような四季折々の行事に際して使用される花々は、その折に採取できるものと対応しており、同時にそれはその行事の色彩的イメージを構成するものであったといえるだろう。季節信仰の超越とは、色彩の解放によってもたらされる「季節-色彩-信仰」関係の変質ないし崩壊と理解することができるだろう。[及川] →花見、四月始には~村々の習はし、盆花、門に祭をする、花木が庭前に栽ゑて賞せられる、赤い花 -
綿年貢の算法
1章5節352-2~3 元禄期以降、畿内を中心とする地域で綿作が盛んになるが、従来の検見取法では、その成果を十分に取り立てることが困難になっていった。これに対し、享保期以降の幕府における年貢増徴の実務を担当した神尾春央(かんおはるひで)は、田方木綿勝手作法を施行し、田地への綿作をはじめとする商品作物の作付は、すべて稲作の上毛なみの年貢を賦課する手段を実施した。一方、畑地は、その等級に応じて年貢を定める畝引検見(せびきけみ)から、現実の綿作生産力を直接把握する有毛検見(ありげけんみ)を1744年(延享元年)に施行し、これに基づくかたちで年貢を取り立てていった(佐藤常雄「木綿検見」『国史大辞典』4巻吉川弘文館、1984年)。[加藤] →紺を基調とする民... -
藍染
1章5節352-7 第1章5節7行目「紺を基調とする民間服飾の新傾向」を参照のこと。[重信] -
紺を基調とする民間服飾の新傾向
1章5節352-7 ここでは、庶民の日常着として藍染の木綿の衣服が好まれていたことに触れている。柳宗悦『手仕事の日本』(1948年→岩波文庫1985年、181~185頁)の「阿波藍」の記事や竹内淳子の藍の研究にもとづき、この前後の記述について、染料の側から、もう少し詳しく見ておきたい。柳は、「かつては吾々の着物のほとんど凡てが紺染めであった」ため、「阿波藍」は、「日本全土に行き渡」ったという。 藍は蓼科の一年生草本(一年で枯れる草木)で、葉は濃い紫色、花は紅で、阿波の平野にはこの藍が一面に植えられていた。染料はその葉から取った。葉を発酵させて固めたものを「藍玉」とよび、その柔らかいものを「蒅(スクモ)」といった。紺屋はこれを大きな甕に入れて、石灰を加え... -
これ以外にも鬱金とか桃色とか、木綿で無くては染められぬ新しい色が、やはり同じ頃から日本の大衆を悦ばせだした事
1章5節352-9~10 柳田は『木綿以前の事』で、俳諧七部集の『炭俵』にある「はんなりと細工に染まる紅うこん」などを紹介し(⑨429、⑨606)、次のように続ける。木綿が若い人たちに好まれた理由として、「第一には肌ざはり」、「第二には色々の染めが容易なこと、是は今までは絹階級の特典かと思つて居たのに、木綿も我々の好み次第に、どんな派手な色模様にでも染まつた。さうして愈々棉種の第二回の普及の効を奏したとなると、作業は却つて麻よりも遥かに簡単で、僅かの変更を以て之を家々の手機で織出すことが出来た」(⑨430—13~17)と述べている。 すなわち、芭蕉翁の頃、庶民の服の素材が麻から木綿へと変わっていった時期と、色彩文化史を専攻される國本学史氏のご教示によれば、... -
山本修之助
1章5節352-12 山本修之助(1903-1993)は、佐渡の郷土史家、民俗学者にして俳人。新潟県佐渡郡真野町(現・佐渡市真野新町)で、本陣であった山本半右衛門家に生まれ、家蔵の史料等を個人で整理した『佐渡叢書』佐渡叢書刊行会、1957~1982年、全16巻を編纂したのをはじめ、数多くの著書がある(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』相川町、2002年)。ここに引用された盆踊唄は、山本の『佐渡の民謡』は、地平社書房、1930年刊。晩年、付近にあった順徳天皇陵の宮内庁書陵部の陵墓守長として20年勤務したが、柳田の二度目の佐渡来島時(1936年)に行った厳格な陵墓参拝のエピソードは、山本の「来島の民俗学者」『佐渡の百年』佐渡の百年刊行会、1972年に記されてある。[岩本] -
木綿の感化
1章5節352-17~18 「木綿の感化」とは前後の文脈から明らかであるが、「若い男女が物事に感じ易く」(352-17)とあり、「幾分か人に見られるのを専らとする傾きを生じ、且つやゝ無用に物に感じ易くなつて来た」(353-4~5)と述べるのは、第8章「恋愛技術の消長」などの伏線となっている。1924年に執筆した「木綿以前の事」で、柳田は「色ばかりか(…)木綿の衣服が作り出す女たちの輪郭は(…)袷の重ね着が追々と無くなつて、中綿がたつぷりと入れられるやうになれば、又別様の肩腰の丸味ができて来る。(…)それよりも更に隠れた変動(…)は、歌うても泣いても人は昔より一段と美しくなつた。つまりは木綿の採用によつて、生活の味はひが知らずゝゝの間に濃かになつて来た」(⑨431-4... -
洗濯
1章5節353-4 同じ行にある「糊」「打ち平めて」を含め、かつての洗濯の手順を振り返っておく。和服の洗濯には、丸洗いや部分洗いのほかに「洗い張り」があった。縫い合わせた衣服の状態から、糸を抜き、布の形状に解き離し、「端縫い(はぬい)」をして反物に戻して、洗浄する「解き洗い(ときあらい)」ののち、皺を伸ばし艶を出す「張り」の作業を経て、洗濯糊(ふのり)を付けて、仕上げとなった。洗い張りとは、基本的にここまでの作業工程を指し、反物の形状を、元の着物や別な着物に「仕立て直し」するのは、別な工程だった。 自分で直すこともできるが、前者の工程を行う洗張り屋と、後者の仕立て屋に、職人は分かれた。褪せた色の「染め返し」や「染め替え」をする場合もあり、... -
縮み
1章5節353-5 苧麻(ちょま)で織った縮織りのことで、明石産や小千谷産が有名。横糸に強い撚りをかけた右撚り(右回りに捻る)と左撚り(左回りに捻る)の糸を交互に織ったもので、温湯の中で揉んで処理すると、布が縮み生地の表面にシボと呼ばれる凹凸が現われる。越後麻布に改良を加えて完成した小千谷縮は、シボのある独特の風合いで高い評価を得て、魚沼地方を産地とする越後上布とともに1955年に国の重要無形文化財に指定され、2009年にはユネスコの無形文化遺産にも代表一覧に記載された(平織のものを越後上布、縮織を小千谷縮と呼ぶ)。絹の縮織りしたものが縮緬(ちりめん)で、丹後縮緬、浜縮緬(滋賀長浜)が有名。なお、第6節の「流行に対する誤解」に出てくる「唐縮緬」(...
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