第1章第4節– 注釈一覧 –
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外国旅客の見聞記
1章4節349-5 有名なのものとして、プラントハンターとして知られる英国人ロバート・フォーチュン(1812-1880)の見聞記にある、「住民のはっきりした特徴は、身分の高下を問わず、花好きなことであった」にはじまる記述がある(『幕末日本探訪記 江戸と北京』講談社学術文庫、1997年、32頁以下)。フォーチュンは、1860年に長崎から日本に入国してすぐに、こうした印象を記している。ただしこれは『世相篇』刊行より70年前のことであり、「近頃」というにはあまりに遠い。また「毎度有る」(349-6)とあるように、柳田自身これを定型的な記事と捉えているため、そもそもひとつの出典を確定することは難しい。しかしたとえば、ジャパン・ツーリスト・ビューローが刊行していた雑誌『ツ... -
町でも花屋が来ぬ日
1章4節349-9~10 柳田は花屋を店舗営業ではなく、行商の花屋を想定している。店を構えず,商品の名を大声で呼びながら売歩いた行商人のことを、振り売りと呼ぶ。天秤棒を用いるときは、棒手振(ぼてふり)とも呼んだ(「棒の歴史」『村と学童』⑭)。特に女性と商業との関係は、民俗学では販女(ひさぎめ、ひさめ)と称し、その物売り行為を古くから着目してきた(瀬川清子『販女』三国書房、1943年、北見俊夫『市と行商の民俗』岩崎美術社、1970年)。京都では平安中期から白川女(しらかわめ)と呼ばれる花売りが、「花いらんかえー」と触れながら頭上運搬で花を売り歩いた。白川女は京都市北東部の比叡山裾野を流れる白川の、両岸近辺に暮す北白川の女性たちで、売り方はリヤカー販売... -
赤い花
1章4節349-12 小林一茶の「赤い花」の俳句は、自分の亡くなった娘を思って詠んだものである。赤い花が好きだった娘も生前はそれを摘むことが叶わず、亡くなって初めて手向けられたという意味だが、この俳句は赤い花が死者と深く結びつくものであったことを暗示している。 柳田は「地梨と精霊」という文章の中で、長野県東筑摩郡の各村の精霊棚に林檎を糸に結わえて引きかける例が多いことを紹介し、これが明治以降の文化であるとして、以前は地梨、すなわち草木瓜(クサボケ)の実だったと推測している。ボケも赤い花と実をつけ、庭にこの木を植えることは忌まれたが、柳田は「赤い果物」を盆の精霊に供へる習慣は「気を付けて居ると他の地方にも有るやうだ」と述べており、東北のハマ... -
花作り
1章4節349-13 「前栽」の記述(348-10~11)からも分かるように、ここでの柳田は、蔬菜などではなく、花卉を栽培することを限定的に、かつ一般的に表現するものとして、「花作り」という語を用いている。よって、蔬菜栽培・果樹栽培などとは別に花卉栽培というのに、ほぼ等しい。 そうした「花作り」が、江戸時代に大規模化していく経路として、まずは大名屋敷などで珍しい植物を育てることの流行がある。富豪などでも同様の試みをするものが増え、なかには花屋敷・梅屋敷などという名で、庶民に公開されたものもあった。そうしたもののひとつで、現在も続く向島百花園は、1809年に開園している。このように都市の庶民も花を愛でる文化を共有していた。また、こうした動きと関連するが... -
明治年代の一大事實
1章4節349-15 近代以前から日本における帰化植物は徐々に、その数を増やしたと考えられるが、開国以降、爆発的にその種類は増加した。横浜や神戸の来日外国人が設立した商社は、日本から多くの植物を欧米に輸出し、それとともに海外から洋種花卉の導入にも努めている。明治初期の東京では江戸川、多摩川の土手で花の取引が行われており、国内で花卉類の輸出入を目的とする横浜植木商会、新井清太郎商店などが設立されたのは明治中頃である。主要な園芸植物の多くはこの時代に導入された。明治後期から大正期にかけては、各地で花問屋が活動するようになり、花屋の数も増加していく。関東大震災以降、花問屋は花卉市場へと活動の場を移し、昭和期に入ると地方にも花卉市場が誕生した(「... -
初期の勧農寮の政策
1章4節349-17 「勧農寮」は、1871年8月から翌年10月にかけて、大蔵省内に存在した殖産興業、とりわけ農業奨励のための部局。しかし「初期の勧農寮」という表現から、柳田は、その時期に限らず、それ以前の民部省勧農局や大蔵省勧業司・勧業寮、1873年末の内務省設置にともなう同省の勧業寮、さらにはその後進のひとつである勧農局などの総称として使用しているようで、明治初期の勧農政策というのとほぼ等しいだろう。「北海道の米国式農政」というのは、1871年9月に開園した開拓使官園などのこと。開拓使顧問の米国人ホーレス・ケプロン(1805-1885)が指導し、東京の青山などに設けられた。1874年に農業試験場と改称したが、1881年に民間に払い下げられ、翌年廃止された。官園の成果... -
家の内仏に日々の花を供へるやうになつた
1章4節350-4 柳田は盆棚が常設化して仏壇になったと考えており(『「四一 常設の魂棚」1946年『先祖の話』⑮76~77)、ここでは仏壇に日々の花を供えるのも「近代」のものとしている。その背景に、いつでも花が手に入るようになった流通の発達、および新種の増加を想定しているが、そのために花を手に入れて捧げることに対する特別な心持ちは失われたのである。なお仏壇の起源は諸説あるが、17世紀の寺請制度によって檀家となった家が、位牌を置く棚を設けたことに端を発するとされる(森隆男『住居空間の祭祀と儀礼』岩田書院、1996年)。[加藤] →盆花、花木が庭前に栽ゑて賞せられる、町でも花屋が来ぬ日、赤い花 -
牽牛花
1章4節350-9 節のタイトルで使った朝顔を、ここでは牽牛花と漢語由来の字で表記したのは、日本への渡来が薬用植物として持ち帰った遣唐使によることに、注意を向けさせるためかと思われる。世界的にみても、品種改良が最も発達した園芸植物で、観賞用に多種多様に変化した。変わり咲朝顔とも呼ばれる変化朝顔の主だった変異は、文化文政期の第一次ブームの際に起こり、嘉永安政期の再度のブームを経て、明治中期に再び流行した。7月七夕前後の3日間に入谷鬼子母神で催される朝顔市や、7月9日10日の両日に浅草寺で催されるほおずき市も、いずれも赤い花や実を賞することが、その基調となっている。鬼灯の実は、お盆に祖霊を導く提灯に見立て、枝葉付きで精霊棚に飾られる。なお、貞包英...
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