男女の風貌はこの六十年間に、二度も三度も目に立つてかはつた。~男の方でも男らしさの標準といふものが、誰定むるところとも無く別なものになつた。~肩を一方だけ尖らせて跨いであるくやうな歩き方もあつた。袖を入れちがひに組んで小走りにする摺足もあつた。気を付けて見ると、何れも履物の影響が大きかつたやうである

1章8節362-19~363-2

柳田は①男女の風貌と、②男らしさと、③歩き方と、④履物とが、それぞれ連動して変化していったかのように示唆するが、その筆致は必ずしも整合的ではない。履物に関しては、基本的に、跣足→足半・草履→下駄→地下足袋→ゴム長靴といった「型式学的層序」があったと捉えていることに間違いないが、論点を少しずつ移行させながら、全体を俯瞰しているとみた方がよいだろう(前注したように、地下足袋とゴム長靴は、実際にはほぼ並行的に流行したように、跣足と草鞋には同時代における階層差もあった。「型式学的層序」とは地方差も含めた型式学的な順番のことであり、一系的な変遷を指すものではない)

「袖を入れちがいに組んで小走りにする摺り足」は草履が、これに対し「肩を一方だけ尖らせて跨いであるくような歩き方」は下駄が想定されるが、人類学の野村雅一が「背筋をのばした武士などがナンバで勢いよく歩くと、一歩ごとに肩が揺れて、いわゆる肩で風を切るという歩容になった」と述べるように、これを身分差(階層差)とみることや、男らしさの表わし方の相違と捉えることもできる(『身ぶりとしぐさの人類学―身体がしめす社会の記憶』中公新書、1996年、18頁)

野村によれば、かつては腰をちょっと落とした摺り足や、腰高で足を交叉させるように出して進む大工や鳶職人の歩き方、両手をからだの前方に向けてハの字にふりながら、小股でちょこちょこと歩く丁稚歩き、若い娘の内股歩き、年増女の練り歩きなどがあったという。懐手をして着物の中で握りこぶしをつくり、肩のあたりを突き上げるようにしたさまを、弥蔵と呼ぶ人名のように表した言葉もあり、江戸後期、遊び人や博打打ちなどがしたもの(『大辞泉』第二版)とされるが、これを一種の男らしさの表現とみることもできる。[岩本]

男ばかりが護謨の長靴などを穿いて~草鞋は通例足の蹠よりもずつと小さく大正終りの護謨長時代+跣足足袋、地下足袋

斬られ与三郎の懐手の立ち姿
出典:月岡芳年「新撰東錦絵 於富与三郎話」1885年(明治18)、国立国会図書館デジタルコレクション
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