1章8節362-17~18
本書が刊行された1931年(昭和6)時点で日本からの植民が行われていた地域は、台湾、樺太、関東州、朝鮮、南洋群島であり、当時は「外地」と呼ばれていた。また満洲においても非組織的で散発的であったが移民が模索されていた。ここでいわれている「沼沢の多い地域」として考えられるのは南洋諸島、あるいは未開拓の湿地帯が多かった満洲である。もともとドイツ領であった南洋諸島は、第一次世界大戦後、ヴェルサイユ講和条約(1919年)によってその経営権が放棄され、国際連盟に指名された国がこれを統治することになった。これに伴い赤道以北の島々は日本の委任統治領となるが、1921年(大正10)2月、沖縄の旅からの帰途にあった柳田は久留米で外務省からの電報を受け取り、国際連盟委任統治委員への就任を承諾する。その後、柳田はヨーロッパに渡り、一度の帰国を挟んで関東大震災が発生する1923年(大正12)まで国際連盟で活動することになった。この間の1922年(大正11)には南洋庁がパラオ諸島コロール島に設立されている。
次に満洲は、1905年(明治38)にロシア帝国との間で交わされたポーツマス条約によって日本が関東州の租借権と南満洲鉄道(満鉄)の経営権を獲得して以来、強い影響力を有していた地域である。柳田は『雪国の春』(1928年、なお以下の引用文の初出は1926年)の中で、「黒龍江の向ふの岸辺にさへ、米を作る者が出来て来たのである。信仰が民族の運命を左右した例として、我々に取つては此上も無い感激の種である」(③628)と満洲における植民を意識した文章を記している。『世相篇』が刊行された年の9月には、満洲事変が勃発し翌年には満洲国が成立。国策として満蒙開拓移民が現地に送られることになる。敗戦に至るまでの14年間に、日本から満蒙開拓団として大陸に渡った人びとは27万人に及んだ。[加藤]