1章8節361-11、362-16,18+1章8節363-8
「人が足を沾らして平気で居てもよいか悪いか」という文章について、本節中に散見する「足を沾らす」こと、または「足を汚す」ことを柳田がどう捉えていたのかを解説する。本節には足を沾らすことも含め、足を汚すことについて3ヵ所の言及がある。これを忌避する感覚は、木綿の質感が好まれ、足袋を穿くことが「習ひ」となったことから発生したと柳田は述べ、あわせて、「足を沾らすことを気にすること、足袋の役立つ仕事を好むといふことは、可なり我々には大きな事件」であったとする(362-16~17)。『木綿以前の事』収録の「國民服の問題」(⑨463~467)では、「都市の格別働かない人たちのいゝ加減な嗜好を、消費の標準にさせて気づかずに置」いた結果(⑨467-10)、「寒くて乾燥した大陸でも無いのに、あんな窮屈な靴を穿かせたり脱がせたり、泥ぼつかいの中をあるかせたり」することになったとし(⑨467-7~8)、「はき物被り物を自然の変化に放任して置いたら、頭は埃を怖れ足は泥を怖れて、働こうといふ男女の職業は茶屋か店屋か、行く先は大よそきまつて居る」と述べる(⑨467-13~14)。「足を汚すまいとする心理」(363-8)は都市生活の流行、または西洋化に方向付けられたものであり、それが働き方の変化にまで波及することを柳田は見据えている。また、こうした議論は生活改善と同様、同時代の國民服の構想を意識したものでもあった。「女性生活史」(㉚366~414)においても、「家の近所で働くには跣足か藁草履、共に今日の國民服研究家の趣味にはかなひさうも無いので、私も実は内々どうするだらうかと、危ぶみつゝも興味をもつて眺めて居ます」との発言がある(㉚398-下6~9)。[及川]