1章6節354-14
木綿に取って代わられたとはいえ、麻づくりがただちに消滅したわけではなく、『世相篇』の時代においても、麻の衣類は着用され、また、麻の栽培も継続していた。そもそも、綿花の栽培は温暖で湿潤な気候が適するといい、国内でも綿花栽培は東北地方では成長しなかった(永原慶二『苧麻・絹・木綿の社会史』吉川弘文館、2004年)。『木綿以前の事』収録の「何を着ていたか」において、柳田は熊本県の九州製紙会社を見学した際に紙の原料となる古麻布を東北から取り寄せている事実に注目し、同地方では冬でも麻布を着用していたことを報告している(⑨438)。すなわち、「寒国には木綿は作れないから、一方には多量の木綿古着を関西から輸入して、不断着にも用ゐて居るが、冬は却つて其上へ麻の半てんを引掛ける風」があるのだという(⑨438-8~9)。降雪のある地域では木綿の水の染みやすさを不便とし、雨外套として麻布を用いているわけである。このように「麻は明治の初年までは、それでもまだ広く栽ゑられて居た」が、「作付反別が追々と縮小の一途」を辿ったことにより(⑨438-1~2)、麻布は「得にくゝ又高くなつた」のである(⑨438-13)。
加藤清之助の『苧麻』(南洋協会台湾支部、1922年)によれば、1905年(明治38)から1914年(大正3)にかけての苧麻の作付面積の推移は下記の表1の通りであった(39頁)。『苧麻』掲載のデータは農林省統計(農林大臣官房統計課『明治6年乃至昭和4年 農林省累年統計表』、1932年)と合致する。ここからは苧麻の作付面積が減少傾向をたどり、生産量を減じる一方で、その価格は上昇していることが読み取れる。なお、このような棉の作付けのできない地域において、または木綿以前の生活において衣類の原料とされていたのは麻のほか、シナノキの皮で作成する「シナタフ」(⑨441-2)や「さよみ」(342-6)や藤蔓の皮(⑨440-1)、楮(⑨439-16)等であった。
ところで、苧麻(ラミー)と同様に麻糸の原料となるものに大麻(ヘンプ)、亜麻(リネン)、黄麻(ジュート)がある。麻は日常の衣類の原料としては後退した一方、近世から近代にかけて、産業としては成長する(前掲永原、346~348頁)。苧麻と同様に『明治6年乃至昭和4年 農林省累年統計表』から大麻等の作付面積等の推移を表2~4にまとめておく。苧麻に比して大麻は微減傾向にありつつも作付面積が広大であり、かつ、価格が上昇している。また、亜麻は明治期に国内での栽培が開始された。明治初期に北海道の開拓地で大麻の栽培が奨励されたが、同地が亜麻の栽培に適することが明らかとなり、北海道の製麻業は亜麻へと移行する。作付面積の拡大が統計からも読み取れる。黄麻は麻袋等の産業資材への利用で知られる。明治30年代~40年代までは関西各地で策縄(さくじょう)、筵(むしろ)、簾(すだれ)等に用いるために小規模に生産されるのみであり、この時期に台湾やインド等より種を取り寄せ、栽培を試行しているが(吉川祐輝『工芸作物各論』1巻、成美堂書店、1919年、126~128頁)、輸入に依存していた(池本純『日本商品地理』同文館、1905年、130~131頁)。こうした麻糸の産業化は軍需に支えられていた。『帝国製麻株式会社三十年史』によれば「大正4年には我邦より欧州連合軍側に対して軍需品として帆布、糸類の輸出を行ふと云ふ未だ嘗て其例を見ざる現象」を経験する(安岡志郎『帝国製麻株式会社三十年史』帝国製麻株式会社、1937年、37頁)。麻は軍服等の制服に利用されたほか、「蚊帳、帆布、網、綱、畳糸」等に需要が多く、1904年段階ですでに「近年海軍の拡張や漁業の盛んになるに従て、船綱、漁網などを製するに用ひらるゝ量が甚だ巨額に達」し、「年々外国から輸入を仰ぐ有様」であったという(横井時敬『工芸作物の話』冨山房、1904年、25~26頁)。苧麻もまた、1905年の『通商月報』に日露戦争の開戦に伴って軍需品として好況を呈し、国内で賄いきれないために輸入に頼っていることが報じられている(『通商月報』114号、1905年、26~27頁)。産業としての麻生産は、戦争による特需に支えられつつも、輸入麻の脅威にさらされていたことにも注意を要す(篠崎茂雄「利用の歴史」『大麻』農文協、2019年、40頁)。
なお、苧麻と大麻は相似した用途に奉仕するかのようではあるが、相応に区別されていた。「からむし織の里」として知られる福島県大沼郡昭和村では、大麻と苧麻の輪作が行われてきた(菅家博昭『苧』農文協、2018年、26~27頁)。そうした地域では大麻は紐やロープ、漁網、下駄の鼻緒の芯縄、普段着や作業着の原料とされたといい、苧麻は「繊維が長く、細い糸がとれる」ため「高級織物の加工」に向くといって使い分けられていた(前掲菅家、28~29頁)。[及川]