1章5節352-17~18
「木綿の感化」とは前後の文脈から明らかであるが、「若い男女が物事に感じ易く」(352-17)とあり、「幾分か人に見られるのを専らとする傾きを生じ、且つやゝ無用に物に感じ易くなつて来た」(353-4~5)と述べるのは、第8章「恋愛技術の消長」などの伏線となっている。1924年に執筆した「木綿以前の事」で、柳田は「色ばかりか(…)木綿の衣服が作り出す女たちの輪郭は(…)袷の重ね着が追々と無くなつて、中綿がたつぷりと入れられるやうになれば、又別様の肩腰の丸味ができて来る。(…)それよりも更に隠れた変動(…)は、歌うても泣いても人は昔より一段と美しくなつた。つまりは木綿の採用によつて、生活の味はひが知らずゝゝの間に濃かになつて来た」(⑨431-4~16)と論じている。なお、1911年に執筆された「何を着て居たか」では、麻以前の素材、栲(タク・タフ)・楮・藤・葛・シナ・イラ・穀の木(カヂノキ)・ユフなどが探索されているが、「日本は地方の事情は区々で、或る土地で夙に改めてしまつたものを、まだ他の土地では暫く残して居たといふ例が幸ひにして多い。それを集めてぽつぽつと整理して見たら、所謂改良の順序はやゝ明らかになり、それを又幽かに伝はつて居る上世の記録と比較し照し合せて、やゝ確かめることが出来はしないだらうか。斯ういつた方法を少しづゝ勧説して見たいと私は思つて居る」(⑨436-16~437-3)と、地理的分布を時間軸に移す思考法を、既に開陳している。[岩本]
→一方の流行の下火は、いつと無く其外側の、庶民の層へ移つて行つた、全国の木綿反物を、工場生産たらしむる素地、麻の第二の長処、麻しか産しない寒い山国でも