六 流行に対する誤解
何を一国の国風①と認むべきかは、さう容易く答へられる問題で無い。たとへば衣服と民族との間に、曾て一つの約束が存在したにしても、それは此際を以て完全に帳消しとなり、残るはたゞ人並の物が著たいといふ願のみである。さうしてずつと以前にも是と同じ変化が、又時々はあつたかも知れぬのである。麻の織物は最初その天然の繊維の、幾らでも細く利用し得られるのが長処であつて、技芸は之に基づいて実に驚くほどの精巧の域に達して居たが、後には却つて其為に、新しい生産経営には向かなくなつたのである。家々の婦女の勤労が、今とは全く異なる評価法に支配せられて居た時代には、彼等は其生涯の記念塔を刻むやうな情熱を以て、神と男たちの衣を織るべく、一線づゝの苧を繋いで居たのであるが、之を市場に托するやうになれば、其価は確に骨折に償はなかつた。新たなる衣料はこれに比べると、実にをかしい程得やすかつたのである。だから麻しか産しない寒い山国でも、次第に麻作を手控へて②木綿古著を買ひ、又は古綿を買ひ入れて打ち直させ、それから買縞③の荷がまはるやうになつて、終にめい/\の機道具を忘れるに至つたので、最初から斯うなることを予期して、乗りかへた者は無かつたのである。是をもし一つの機運と名けるならば、原因は遠く遡つて村々の人の心理に在つた。門を叩かれて漸く戸を開いたのでは無いのである。
強ひて思を構へる迄も無く、我々の色の歴史は不思議なやうに、文化の時代相を映発して居る。始めて日本に木綿の日が東雲した時には、新らしい色と謂つても算へるほどしか無かつた。人は今考へたら笑ひたい位の単純なる色を、染めて著て嬉しがつて居たのである。さういふ中にも正紺の香は懐かしがられ、縞は外国から入つて来た流行らしいが、それにも我々の好みは加はつて、絹の色糸などがつゝましやかに織り込まれ、爰でより見られない発達を遂げたのであつた。絹の縞織などは起りは古いかも知らぬが、後には寧ろ木綿の趣味に追随する観があつた。ところが新たに縞を知らぬ国々と交際④してから、却つて木綿を絹らしく見せようとする努力が始まつたのである。それから又一方には、毛織物とも近づかうとして苦労をした。メンといふ語を頭に載せた色々の織物は、すべて此際を以て出現したのであるが、其中でも綿フランネル⑤などが殊に沢山の逸話をもつて居る。無地や染模様に幾つもの理想を抱いて居りながら、肝腎の染料が思ふやうには得られなかつた。仮に粗末な品で間に合はせようとしたゝめに、直ぐにぼやけて浅ましい色になり、地質の良くないのと相助けて、何の為に此様なものを着て居るのかと舌打ちするやうなものをよく見かけた。それが程無く外国の補給によつて、先づ一通りの色だけは具はつたものゝ、実はまだ自分の能力では無かつたのである。世界大戦時代の貿易杜絶によつて、その弱点が明白に露はれ、国内の生産者が共々に慌てた光景は、全く何かの判じ物のやうにも思はれた。それが朝野の苦心の結果、大正四年の染料医薬品製造奨励法⑥などゝなつて、兎に角一時を間に合せたのみならず、躓きながらも結局は染料国産の、前途を拓いて行く機縁となつたことは、ちやうど今日の思想界とも似て居るのである。
モスリン⑦工業の急速なる発達の跡は、その一種の中間性⑦に於て、人力車などの経過と共通した点が多い。尤も此方は最初は模倣であつたが、即座に我々は之を日本向きと化し、後には又他で見られない特産として認めさせた。さうして是がどの程度までに、国の生活の実際と調和し得るかを、遅くなつてから発見したことも同じである。原料が果して国内の生産を期し得るかどうか、それを何れとも決し得ないまゝで、著手したことは無謀のやうであるが、そんな事には構つて居られないといふ事のみは、既に木綿の方でも経験して居る。兎に角、自分で作つて見なければ損であり、又精確には国内同胞の要求に追随することも出来なかつたのである。勿論此要求は稍気まぐれに、始終変つて行くものであつた。僅か行き過ぎて振りかへつて見ると、流行⑧の弱点などは誰にでも心付くものである。たとへばモスリンが塵埃に化し易く、衣類を一年半季の消費物として、家の予算を組む慣習を強ひられることは、後には明白になつて来たのであるが、少なくとも我々は之に由つて、又新らしい経験を積み添へた。一言でいふならば獣毛も著らるゝこと、古来一疋でも羊を飼つた覚えの無い百姓でも、其毛を取り寄せて織らせて著ることの出来る世の中に、もうなつて居るといふ意識である。是が将来何を著るべきかの問題を決する為に、重要なる参考資料であることは言ふ迄も無い。以前は玩具に近かつた毛糸の利用普及、それよりも更に顕著なる厚地毛織物の生産増加、殊に染色応用の技術進歩が、悉く過去数十年の、唐縮緬文化を苗床として居たことを考へると、これは確に無益なる実験では無かつた。問題はたゞその次々の実験の途中、やたらに理想的だの完成だのといふ宣伝語を、真に受けることがよいか悪いかで、所謂生活改良家⑨は少しばかりその説法がそゝつかしかつた様に思はれる。
絹と人造絹との新旧両端の織物も、共に此意味を以てもう一ぺん試験せられるだらう。絹が忘れる程古い昔から有る故に、誰にも向くといふことの言へない如く、一方も亦最後に出たのだから、あらゆる階級の註文に応じて居ると迄は言ひ得ない。しかも新たに発明せられたものは固より、久しく伝はるものにも各の用途はある筈だから、我々は先づ其領分を劃定する必要を見るのである。全体に季節境涯その他、是ほど千差万般の身の望みを持ちながら、少しく有合せのものを著るといふ辛抱が強過ぎたが、実は今までは色と形と、其価とより他のことを考へる者が、足りなかつたのだから致し方は無い。色は其中でも最近百年間の国民共同の研究問題であつた。それが明治に入つて天然と人文との、二つの禁色を解放せられたのだ。自由は我々を眩惑せしめたのである。それを今頃になつて元の穴へ、再び押し込むなどといふ事は出来るもので無い。寧ろもう一歩を進めてあらまし此問題を片付けそれから少しづゝ他の点に及んだ方がいゝ。和田三造画伯の色彩標本は五百ださうだ⑩が、それを千五百にも増加したら、もう大抵は索引によつて順ぐりに引き出すことが出来るだらう。幸ひに我々は隠れた永年の演習によつて、幾らでも新しい色を空想し得るだけの能力を養はれて居た。さうして之を実際の物とする学術は、向ふの方から近よつて来たのである。世界の国々との色彩の交易に於いても、既に多くの珍らしいものを供給した。我々は必ずしも輸入超過を苦しんで居ない。たゞ時々は過度の謙遜を以て、日本もまた他の太平洋の島々の如く、始終欧米服飾の趣味流行に、引き廻されて居るものゝ如く考へることを、弱点とするばかりである⑪。