1章9節364-9
「騒音」という語が現れ、規制の対象となることは新しい問題であった。東京では、外国人の眼を意識した風俗の改良をめざし、1872年11月に違式詿違(いしきかいい)条例が出された。ここでは、立小便や裸体、肩脱ぎ、入墨が禁止されたが、1878年(明治11) 5月に「街上ニ於テ高聲ニ唱歌スル者但歌舞営業ノ者ハ此限ニアラズ」、「夜間十二時後歌舞音曲又ハ喧呶シテ他ノ安眠ヲ妨クル者」が追加された。末岡伸一によれば、これが最初の騒音規制とされる(「騒音規制の歴史的考察(明治期から第二次世界大戦)」、『東京都環境科学研究所年報』、2000年、207~214頁)。東京に範をとった違式註違条例が各地で制定されるなかで、騒音は規制の対象とされていったが、ここでの騒音は、人声、音曲であって、今日われわれの意識する騒音問題とは異なっている。
他方、1877年からは、蒸汽機関を設置する製造所に出願が求められるようになり、1894年には工場などについて、煤煙や臭気と並んで「騒響」が調査され、器機の振動や「喧騒」が取り締まり対象となる(「汽罐汽機取締規則執行心得」、1894年)。これは、東京電燈会社に対して、機関運転所の近隣から出された苦情(「機関運転の音響と云い煤煙と云い、いずれも近傍の迷惑を感ずる所」)にみえるように、当時新たに意識された「音響」が取り締まりの対象となってゆく状況が反映されたものと思われる(「煤煙と騒音に苦情多く蔵前へ工場移転」『朝野新聞』1893年6月6日、(再録)『明治ニュース事典』5巻、1985年、526頁)。なお、行政による取り締まりの文書で「騒響」が「騒音」と表記されるのは1935年を待つことになる(末岡、同前)。
近代の東京において、様々な音があらわれ、人々の耳に響いた状況は、原克『騒音の文明史』(東洋書林、2020年)に詳しい。[田村]