下駄屋

1章8節363-5

遠藤武によると、1828年に刊行された『江戸買物独案内』には、草履屋や雪踏屋はあるものの、下駄屋の記載はなく、当時は、下駄は草履屋で売られ下駄専門店はなかったという。そして、幕末に至るまで都会では、主に草履が使われていたとしている(渋沢『生活編』65頁)

西日本の下駄の一大産地の一つであった広島で下駄が生産されはじめたのは、18世紀末のことであり、19世紀初頭以降は、広島藩の産物統制政策により、広島城下の48軒の株組織にのみ小売りが制限されていた。広島の下駄が、京都から九州まで西日本一円に販路を拡大したのは、明治期以降に小売りが自由になってからであったという。特に明治の中頃から、松永(現福山市)で、油桐、針桐などの雑木を使って下駄を作り始めて大きく発展し、松永を含む沼隈郡の下駄生産高は、1912年(大正元)の836万足から1917年(大正6)の915万足へと増大し、昭和10年頃には機械生産を始める(以上、広島の下駄については、広島市郷土資料館『広島市郷土資料館資料解説書 下駄づくり』1991年、3~8、23頁)。つまり下駄の生産と消費は近代以降に増え、各地の下駄専門の小売業者も、近代に入って増加したことが推測される。

下駄の台部は、製造職人がつくり、表に畳や籐を打ち付けたり、鼻緒を付けるなどは小売店の仕事であった。下駄の専門小売店は、ただ販売するだけでなく、下駄を履く人の好みに合わせて表打ちをし、足に合わせて鼻緒を調整するなど、あつらえるための技術が必用であった。

福岡県福岡市で明治10年代に創業したH和装履物店は、もともとは広島などから下駄材を仕入れて、下駄の製造販売をしていたが、第2次大戦後に販売専門店となった。4代目店主は、若い頃に東京・神田の履物店に修行に出され下駄屋の商売を学び、特に習得してきたのが、鼻緒の調整術だった。鼻緒が足に合っているかいないかで、歩き方が変わってしまい、鼻緒の調整が下手で足に合っていない下駄は、歩く音を聞けばわかるという。

福岡では、昭和30年代までは、正月と盆に下駄を買い替える習慣があり、履物店はその時がもっとも忙しかったという(H和装履物店については、福岡市史編さん委員会編『新修 福岡市史 特別編 福の民 暮らしのなかに技がある』福岡市、2010年所収「女ですから、好みが入ります H和装履物店」)[重信]

明治三十四年の六月に、東京では跣足を禁止した足を沾らす+足を汚す草鞋は通例足の蹠よりもずつと小さく足袋素足大正終りの護謨長時代+跣足足袋、地下足袋著聞集には小馬を足駄だと謂った人の話があるが、駄といふからには何か基づく所はあつたのである更に明治に入つてから突如として生産の量を加へた