新らしい洋服主唱者にもし不親切な点があるとすれば、強ひてこの久しい行掛りと絶縁して、自分等ばかりで西洋を学び得たと、思つて居ることがやゝそれに近い

1章7節359-16~17

近代における洋装の提唱は合理性の追求と和装への批判と連動していたが、生活への洞察を欠き、庶民にまでは普及しなかった。これらを上流中流の人びとによる素朴な西洋主義として批判するのがここでの柳田の発言である。

そもそも、女性の洋装は鹿鳴館時代に上層階級の婦人の衣装として出現し、洋裁教育も興隆していくが、この時期、洋服で外出するのは中流以上の家庭の女性であった。この時期から、和服の不合理性が指摘され、衣服改良運動が女性誌上で展開され、改良服の考案が進められる。ただし、これらは庶民にまでは浸透しなかった。大正期の生活改善運動においても和服の不合理性が指摘され、服装改善運動が展開される。大正期には職業婦人の増加に伴い、洋服が一層の普及をみた。また、関東大震災において、和服の不合理性がさらに認識されるに至った。しかし、庶民の衣生活から和服が消えるには至らなかった。

こうした合理性の追求は、やがて昭和の国民服に結実していく。とりわけ、昭和10年代には戦時下の物資欠乏により衣服の新調が困難であること等を理由に、日常の仕事着から礼服まで通用する衣服が構想され、厚生省社会局、陸軍被服協会、大日本国民服協会等が、国民服の制定と普及に取り組む。しかし、女性は依然として和服を着用する者が多かった。国民服の女性版である婦人標準服が1942年(昭和17)に発表されるも、ほとんど着用されることはなかった。むしろ、戦時下においては、モンペの着用が顕著であった。

なお、庶民の生活に洋服が定着するのは、第2次世界大戦後の「衣服革命」以降である(小泉和子「『洋裁の時代』とはどういうことか」『洋裁の時代―日本人の衣服の革命』OM出版、2004年)。とりわけ、敗戦によって衣料市場が壊滅し、援助物資として洋服が大量流入したこと(渡辺明日香「日本のファッションにみるアメリカの影響―洋装化、ジャパン・ファッションの影響・ストリートファッションの現在」『共立女子短期大学生活科学科紀要』57号、2014年)、アメリカ的な衣生活がメディアを介して発信されたことが、その契機となった。[及川]

所謂生活改良家所謂洋服も亦とくに日本化して居る婦人洋服の最近の普及モンペ、モッピキ厚地綾織類の詰襟~生活を改良する望み