1章6節356-1
本書の導入部である「新色音論」は、近世の椿と鶉(うずら)の流行に触れているが、流行の位置づけと、それにどのような態度で臨むかという問題は、『世相篇』に貫徹したテーマである。
本節のタイトルは、「流行に対する誤解」だが、この誤解とは、近代の日本における衣生活の変化が、「始終欧米服飾の趣味流行に、引き廻されて居るものの如く考へること」(357-2)を指す。例えばモスリンの普及に言及した箇所では、「最初は模倣であったが、即座に我々は之を日本向きと化し、後には又他で見られない特産として認めさせた」(355-16)と述べ、その過程で形成された「過去数十年の唐縮緬文化」が、「毛糸の利用普及」、「厚地毛織物の生産増加」、そして「染色技術の進歩」を促したと指摘する(356-6~7)。つまり当初は外国からもたらされた流行であっても、それが「日本化」し、これまで無かった色彩の毛織物が「日常」に現前したのである。このような視点は、次節の「ヨウフク」をめぐる議論にも接続されるが、柳田はローカルな視点から流行を見ていくことで、その受容の背後にある歴史的文脈と、独自の展開を描き出すことを試みている。
このような歴史叙述と併行し、『世相篇』は流行が地方や生活者の自律性を損なう点を批判している。柳田の流行に対するスタンスは、第13章4節の「流行の種々な経験」に明確に表れているが、ここでは村落社会の自律的な生産活動が「我境遇の趣味」を保持するものであったことをまず確認し、「村の生産の大部分を商人資本に引渡すと、忽ち一切の好みが彼等の思はくに指定」されると指摘する(581-12~13)。こうして地方の「趣味」や「好み」は都市の流行に「塗り潰され」、都市による地方の経済的搾取がなされるようになる。このような都市と地方の非対称性を是正し、地方の精神的、経済的自律性を回復させることは、農政官僚時代以来の柳田の主題であった。
『都市と農村』(1929)でも、「地方生活の要求は必ずしも究められず、流行らせると称して先ず商品を用意し、次で新たに欲望を植付けて居る」とし(④316-5)、「商人資本」が流行によって「不必要な消費」を生み出すことの問題を指摘している。柳田は「不必要な消費」の例として、「山清水の傍らで古びたサイダーを飲む」という印象的な譬えを持ち出しているが、このような消費を地方が自主的に整理し、「経済自治」を回復させる必要性を説いた。また「自治」は『世相篇』の第13章「伴を慕う心」と第14章「群を抜く力」のキーワードだが、これは同じ問題を共有する人びとが団結し、流行や市場に対抗する精神的、経済的自律性を確保することを指す言葉として用いられている。柳田は流行を無批判に受容せず、これを適切に取捨選択するための知識を民俗学によって供給し、生活世界の「自治」を確立することを目指していた。[加藤]
→昂奮、一方の流行の下火は、いつと無く其外側の、庶民の層へ移つて行つた、一種の中間性+モスリン、我々は必ずしも輸入超過を苦しんで居ない~、所謂洋服も亦とくに日本化して居る、町の流行で無かつたといふこと、新旧雑処して残つて居たといふこと、真に自由なる選択