1章6節355-15
モスリンは、18世紀から19世紀にかけてヨーロッパで大流行した平織の綿染織物だったが、19世紀後半になると羊毛を使ったモスリンがつくられ、それが明治初期の日本に輸入されることになった。したがって日本でいうモスリンは、綿織物ではなくもっぱら毛織物を意味していた。そしてもともと洋装の素材だったモスリンは、それ以後日本では日常着用の和装の素材として普及することになった。
近代以降の日本におけるモスリンの普及について、先川直子(先川「近代日本におけるモスリン」(『目白大学短期大学部 研究紀要』47号、2011年)によりみていく。輸入されるモスリンの染の柄は日本の和装に合わず、型友禅の技術を使って染色を行うようになり、生地を輸入してローラー捺染機(なっせんき)などで和装用に捺染をするようになる。洋の素材を和の技術で染めて、折衷的に使い始めたのである。
モスリンは、日本では唐縮緬、メリンスなどとも呼ばれた。唐縮緬は、絹織の縮緬の代わりに用いられたことと、その素材自体が縮れていたことにより名付けられた。メリンスは、オーストラリア産のメリノー種の羊毛を使って国内生産されるようになって普及した名前であった。明治30年代から国内生産が始まり、1913年(大正2)には、ほぼ国内生産でまかなわれ輸入はほとんど無くなり、モスリンは大正末から昭和初期には安価な和装の日常着の素材として絶頂期を迎える。
しかしモスリンは、もともと洋装の素材を安価な和装用素材として転用し、また絹縮緬の代用に使用するなど、使われ方自体も折衷的であったといえる。結局、第二次大戦後、日常着としての和装が衰退するとともに、モスリンは使われなくなった。
結局、短い間しか使われなかったモスリン(唐縮緬)であったが、柳田は、この経験を「唐縮緬文化」と名付け、獣毛を着るための毛織物技術、染色技術などの経験を蓄積、発展させる媒介になったことを評価するのである(356-7)。毛織物の新たな可能性への過渡期を担ったという点でも、モスリンには、「中間性」があった。
また、柳田は、そうした中間性、折衷性を人力車にも見ていた。第6章1節「人力車の発明」は、人を牛馬の代わりに使う人力車を、過渡的に出現した乗り物として位置づけている。人力車は、1870年(明治3)に製造許可を取得した日本で発明された乗り物であった。それから5年後の1875年には、全国で11万4千台を数え爆発的に普及した。(以下、人力車の歴史的展開については、斎藤俊彦『人力車』クリオ、1979年を参照した。)
明治10年代には、複数の人力車を区間ごとに乗り継いでいく「継ぎ立」により長距離輸送に人力車が使われた。たとえば東京―仙台間、東京―福島間、東京―土浦間、そして神奈川―京都間などで、「継ぎ立」が組織された。しかし、明治20年代に鉄道網が整備されていくなかで、人力車は長距離輸送から追われ、もっぱら都市内の面的な輸送の担い手へと転換していく。しかしそれも、大正期に自動車が出現し営業用乗用自動車が出現すると、主要な交通機関としての役割は終わることになる。いずれの場合も、鉄道や自動車の出現までの中継ぎ的な役割であった。
モスリンも人力車も、折衷的もしくは過渡的な役割を果たしていたという意味で、双方とも「一種の中間性」という共通した性質を持っているといえるのである。[重信]