1章6節355-5
縞という言葉は江戸時代に入って普及したもので、近世初期の南蛮貿易の輸入品として、南方の島々からやってくる織物が島木綿と呼ばれたこと由来する。縦横の意匠をあしらった縞模様の布製品が存在する国は、インド、中国などであり、江戸ではインド・サントメ産の桟留縞(さんとめしま)、ベンガル産の弁柄島(べんがらしま)などが流行した(松田毅一「南蛮風俗」『国史大辞典』吉川弘文館、1989年)。柳田は、近世に麻から木綿へと衣生活が変化する過程で、様々な模様を描き出す工夫が女性たちによって行われたことが縞の発達に影響を与えたと指摘している(「女性史学」『木綿以前の事』1939年、⑨607~608)。
欧州で縞の意匠は一般的でなく、開国後の綿布の輸出においても、その主力は白木綿であり、縞木綿は国内市場向けであった。綿布の増産と輸出は近代に入って急速に進み、1933年には、イギリスをぬいて世界一となっている(林英夫「綿織物業」『国史大辞典』吉川弘文館、1992年)。[加藤]