1章6節354-7
今日では「くにぶり」あるいは「こくふう」と読ませるのが普通であろうが、「くにふう」とルビが振られている(定本や平凡社東洋文庫版、講談社学術文庫版、中公クラシックス版などには、ルビはなし)。原典の朝日新聞社版や全集には、第2章の「肉食の新日本式」でも(2章7節388-9)にも、「くにふう」とルビがあって、誤字・誤植ではない蓋然性が高い。「くにぶり」「こくふう」と読ませると、原義の「地方の習俗」を想起させるためか、ナショナルな国レベルの習俗や日本風の文化の総体(あるいは世相)を指示して、そう訓じたのだと推察することもできる。『世相篇』には5ヵ所に「国風」が登場するが、全集では残り3ヵ所にはルビは振れられていない(2章2節372-3、6章2節463-7、7章4節484-2)。ただし、朝日新聞社版には、第2章2節46-9と第7章4節212-8に「こくふう」とルビがあって、第6章2節181-2にはルビがない。いずれも、ナショナルな国レベルの議論をしていて、内容的にルビを使い分けているわけではないようだ。判断は難しいが、以下では「くにふう」の非誤字説に立って、これを検討してみることにする。
木村茂光によれば、歴史学における「国風文化(こくふうぶんか)」という語の定着は、1950年代のことだったとされる(『「国風文化」の時代』青木書店、1997年)。日本の文化史上の一区分として、10世紀から11世紀の摂関政治期を中心とする文化相を、「国風文化」と呼びはじめるのは1930年代のことで、大濱徹也によれば、「1930年代の国体明徴の時代風潮をうけ」、東京商科大学教授川上多助『平安朝史』(『綜合日本史大系』第3₋4巻、内外書籍、1926-1930年)で「9世紀初頭を『唐風文化』となし、10世紀以降を『公家文化』と呼び、『国風』を『公家文化』の一要素とし」たと論じられる(「国風文化とナショナリズム―清少納言と紫式部がいた時代」『学び!と歴史』40号、日本文教出版、2010年)。
今日、9世紀末の遣唐使廃止によって、中国文化の影響が薄れ、日本の風土や人情・嗜好などに基づいて日本独自の文化が育まれた、とされてきた旧来の教科書的な理解は、揺らぎつつあるが、このように見たとき、柳田の「国風」という語を用いた文脈には、5例の中で最初の4例は、いずれも『世相篇』発刊当時、現われはじめていた、本質主義的に伝統視しようとする風潮に対する批判が込められているように見える。[岩本]