1章5節353-6~7
「素地」とは、「足手に纏わりやすい」木綿を、糊付けして「麻の感触」を保持しようとするなど、手間を加えてまでして、染めやすい木綿を普段着にしようとしたことを踏まえている。木綿の工場生産が発展していく背景に、柳田は、そこまでして木綿を使おうとした人々の「好み」のありようを見ようとしていた。
しかし、遠藤武「衣服と生活」(渋沢敬三編『明治文化史 12 生活』1950年、14~17頁)は、明治期以降に木綿が普及し、綿糸工業が盛んになった直接的な背景を、まず外綿の輸入量の増加に見ようとしている。幕末から明治期にかけて綿の輸入量が内地綿生産高を凌駕し、その一斤の価格は1874年(明治7)には輸入綿29円66銭に対し、内地綿42円70銭、1878年(明治11)には輸入綿26円86銭に対し、内地綿45円と、圧倒的に輸入綿が安かった。
輸入綿は、1893年(明治26)頃までは中国、1897年(明治30)頃まではインド、それ以後はアメリカやエジプトから輸入されたという。
こうした外綿輸入を背景に、1883年(明治16)に大資本の大阪紡績が設立され、それ以降全国の紡績工場は、1887年(明治20)には19に、1897年(明治30)には74、1907年(明治40)には118と増えていった。安い外綿の流入と紡績工場の発展により、綿栽培と農家の綿織は減少していくことになった。[重信]
→紺を基調とする民間服飾の新傾向、木綿の感化、麻の第二の長処、明治二十九年の綿花関税の全廃、紡績の工芸が国内に発達してくると共に、麻しか産しない寒い山国でも~、縞を知らない国々との交際